『日下村森家庄屋日記』から江戸時代の暮らしを紹介 浜田昭子

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『日下村森家庄屋日記』から 第1回八代将軍の日光社参

日下村庄屋森長右衛門貞靖の記録した『日下村森家庄屋日記』には二九〇年前の日下村の日々の暮らしが詳細に描かれています。様々な事件も起きていますので、それを紹介していきましょう。
 まず第一回は享保十三年に行われた八代将軍吉宗の日光社参です。この時、日光社参という江戸で行われた出来事にもかかわらず、遠く離れた山里である日下村にも、かつてないほどの厳戒態勢が敷かれたのです。長右衛門は大騒ぎの日下村の様子を細大漏らさず記録しています。将軍が江戸城を留守にするということが、当時どんなに大変なことであったかが分かります。この時全国で、同様の限界体制だったはずです。それは村人にとっても大変な緊張を強いられる出来事だったのです。

1 八代将軍吉宗の日光社参 吉宗の政策
享保十三年(一七二八)四月、八代将軍吉宗が日光社参を挙行する。将軍の日光社参は、四代将軍家綱の寛文三年(一六六三)以来六五年ぶりのことであった。吉宗が将軍に就任したころは幕府財政が逼迫し、いわゆる「享保の改革」という政策が強行された。享保七年(一七二二)に窮余の策としてとられた「上米の制」は、諸大名に対し、一万石について一〇〇石を上納させ、その代わりに、参勤交代の江戸在府を半年に減ずるというものであった。この政策はかなりの実績を上げ、短期間で幕府財政を黒字に転ずるものとなった。しかしこれまでに例を見ない大名への課税であり、軍役としての参勤交代を半減するというものであったため、幕府権威が地に落ちた感は否めなかった。この情勢の中、幕府にも大名にも多大な負担を強いるこの一大イベントを行った背景には並々ならぬ吉宗の意図があった。

享保時代はすでに開幕以来、泰平の一〇〇年が過ぎ、武士本来の「兵」としての機能は要求されず、官僚化が進んでいた。特に五代将軍綱吉の「生類憐みの令」は、合戦で敵の首級をかき切ることが誉れとされた武士の「兵」としての本質を真っ向から否定し、重要な軍事訓練であった鷹狩は禁止となり、武士の軟弱化が進んでいた。ここで人心を一新し、武士としての原点に立ち返らせる必要があった。将軍の軍事指揮権の発動であり、大名への最大の軍役動員である日光社参は、武士の泰平慣れに一石を投じ、封建主従制の根源にあるご恩奉公の倫理を再確認させるための有効な手段であった。それは将軍への忠誠心を強化し、幕府権威の復活につながる。それこそが吉宗の目指したものであり、幕府が更なる改革を強力に推し進めるための原動力となるものであった。日光社参挙行

この時の日光社参の規模は、供奉者一三万三〇〇〇人、関八州から徴発された人足二二万八〇〇〇人、馬三二万頭といわれる。費用は十代家治の安永五年(一七七六)の時の記録で二二万三〇〇〇両といわれ、この時もそれに匹敵するものであったと思われる。泰平の世では軍役動員、隊列編成に不慣れのこともあり、五日前に江戸城吹上で行軍演習が行われ、吉宗も閲兵している。

出発当日、四月十三日はあいにくの大雨であった。江戸市中主要な橋七ヶ所を閉鎖し、御成道筋は一切人留め、というかつてない厳戒態勢が敷かれる中、奏者番秋元但馬守喬房が午前〇時に先駆け、同じく奏者番日下村領主本多豊前守正矩が続く。吉宗は二〇〇〇人の武士に守られて午前六時に発駕した。最後尾の老中松平左近将監乗邑が江戸城を出たのは午前十時で、実に一〇時間を要する行軍であった。(『栃木県史』通史編4近世一九八一)

御成道筋の庶民には、「男は家内土間に、女は見世にまかりあり、随分不作法にならぬように」(『御触書寛保集成』石井良助高柳真三一九三四)というお達しであった。庶民はひたすら家中で謹慎し、商売も開店休業のありさまであった。一行は、日光御成道の岩槻城・古河城・宇都宮城で宿泊し、十六日に日光山に到着する。十七日が家康の忌日で東照宮で祭祀が行われた。日下村領主本多豊前守正矩は祭礼奉行を命じられ、この日は将軍の補佐役として緊張の連続であった。まさに一世一代の大役、無事やり遂げて当然、そうでなければ進退にも関わる一大行事であった。供奉の大名たちそれぞれにとっても、事情は同じであったろう。一つ一つの儀式が、何人も犯すべからざる将軍と幕府の強大な権威を顕示していた。それへのひたすらな服従、それだけが生き残るために是非とも必要な最重要事項であると、誰もが感じたに違いない。吉宗の幕府権威の強化という大きな目的が叶えられた瞬間であった。一行はその後同じ道筋を通り、二十一日には江戸城に帰着している。

日光御用銀

日下村領主本多氏は、藩主本多豊前守正矩が日光社参に供奉と祭礼奉行を命じられたため、本多氏領分四万石の村々へ二〇〇〇両の御用銀を課した。その内容は、前年十二月三日条に、

下総弐万石へ金千両、  但百石に人足八人馬弐疋ツヽ

沼田壱万石へ金五百両 人足馬同断

上方壱万石へ金五百両 即御用に立不申候ニ付人足馬

ハ御免

とあり、河内領一万石に対して金五〇〇両で、河内村々一万石での割方を行い、石につき銀二匁七分となり、日下村石高七三五石で計算すると一貫九九〇匁となる。これは現代の金にして四〇〇万円前後であろうか。関東の領分では馬、人足もかけられているが、上方は遠方のため免除されている。十三年二月に村人から集めて蔵屋敷へ納められた。御用銀は利息を付けて返済されるものであるが、本多氏の財政困難の故か、その翌年から利息の支払いのみで、本銀の返済はなかった。

日下村の厳戒態勢

幕府は前月から日光社参に関する触書を頻発し、「火の用心、不審者警戒のため木戸・自身番の昼夜勤務と、奉公人の欠落(かけおち)防止、新規の奉公人の身元確認」を厳重に命じている。(『御触書寛保集成』)幕府にとって最も避けたい、この期に臨んだ民衆の不穏な動きを誘発させない配慮である。六五年ぶりの大行事であり、長右衛門と村人にとってもすべてが初体験であった。日下村では四月十三日出発の数日前から、廻状が続々と到着する。将軍が江戸城を留守にし、一〇万人の武士が従軍する日光社参がいかに非常事態であったかが分かる将軍の出発前の十日から、下村の中心を南北に貫く東高野街道の辻と、南隣の芝村との境の二ヶ所に番小屋を立てさせ、番人三助に昼夜警戒のため村中を見廻らせている。東高野街道という当時の一級国道や、村境は様々な人間が村へ入り込む可能性がある。諸勧進・物もらい・諸商人など村外のものの入村が禁じられていたから例を見ない厳戒態勢であった将軍が江戸城を出発されると、遠く離れた日下村にも一層緊張感が張り詰める。連日連夜、村役人である庄屋・年寄が会所に詰める。村中に火の用心を触れ廻らせ、不審者を見張らせる。大坂町中では鳴物停止令(なりものちょうじれい)」が出されたようで、芝居や普請がとまり、夜は町同心が警戒する緊迫の様子が廻状とともに伝わっている。これは「穏便触(おんびんぶれ)」ともいい、普請などの工事や芝居歌舞音曲の芸能を禁じるもので、いつもは賑やかな大坂の繁華街もひっそりと静まり返っていた。将軍が日光山に到着されると蔵屋敷からの廻状が続々と届く。「庄屋・年寄村役人の他出は厳禁、喧嘩口論・火の用心を慎み、物静かにつかまつ」とあり、日下村にも鳴物停止令」が出されたのである。村でのその規制は、音を伴う商売から家庭内労働にまで及ぶ。誰もが作業を取りやめて家の中で謹慎するしかなかった。四月二十一日には、「今日 還御相済候につき町中自身番中番共今晩より無用」(『御触書寛保集成』)の触書が廻る。将軍は日光社参を終え、無事江戸城へ還御となり、その夜から厳戒態勢解除となる。日下村でも連日の会所での警戒が終わり、長右衛門はじめ村人はほっと一息いれる。一汁二菜のささやかな朝食で無事祝いをして、一〇日ぶりにようやく自宅で寝ることが出来たのである。無事終了将軍帰還から六日遅れで、日下村領主本多豊前守正矩が日光から無事に江戸へ帰着された旨の廻状が届くと、早速翌日に長右衛門は蔵屋敷へお悦びに出る。何事があっても領主へのお祝い言上は欠かせない。この年の十一月、例年の通り年貢率を申し渡される「御免定御渡」のため、本多氏領河内二〇カ村の庄屋・年寄が蔵屋敷へ召集された。その折、日光御用無事終了の祝儀に領主から酒を賜わる。吸物・肴三種にて酒宴が催されたが、蔵屋敷で領民へのこうした接待は珍しいことであった。御用銀を負担した百姓への慰労でもあろうが、譜代大名で奏者番という幕府官僚の中枢にあった本多氏にとって、この日光社参がいかに一世一代の大行事であったかが伺われよう。将軍の日光社参という幕府の一大イベントが、生駒西麓の日下村の暮らしに与えた影響は大きなものであった。六五年ぶりの行事では長右衛門たちにとっても戸惑いは多く、蔵屋敷からのお達しに忠実に勤め、ただ何事も無く平穏無事に過ぎてくれることだけを願う日々だったに違いない。日下村という山里の小村にも村の要所二ヶ所に番小屋を立て、日夜番人に村中を見廻らせ、庄屋、年寄の村役人が連日会所で寝起きする。これまでに経験のない厳戒態勢である。庄屋としての長右衛門にとっても神経を張り詰めた日々であった。

 

 

 

日光社参の行列
日光社参の行列
船橋
日光お成り道

第2回 江戸時代の疱瘡

 江戸時代には様々な疫病が流行りました。その中でも最も恐れられたのが疱瘡です。今回は日下村の庄屋長右衛門さんの長男が疱瘡に罹った時のことをご紹介しましょう。

勝二郎疱瘡にかかる 

 

享保十三(一七二八)年四月、八代将軍吉宗の日光社参が行われました。東照神君家康の忌日に当る十七日、日光東照宮では、最も重要な祭礼儀式が行われていました。ちょうどその日、日下村の厳戒態勢の総指揮をとっていた庄屋長右衛門のもとに飛脚が飛び込んできます。勝二郎疱瘡発病の知らせでした。思わず長右衛門は、  

「よりにもよってこの大変な時に!えらいこっちゃ!」 

 と顔をくもらせます。  

 勝二郎とは、大坂の大商人である野里屋四郎左衛門家へ養子に入っていた長右衛門の長男で、この時一六才でした。野里屋は近世初頭から大坂三郷南組(そう)年寄(どしより)を勤める名家でした。長男疱瘡の知らせは長右衛門家を震撼させます。 

 

疱瘡とは天然痘のことで、現代ではすでに根絶されていますが、江戸時代には人々を恐怖に陥れた流行病(はやりやまい)であり、長右衛門家の下女がこの年の二月に疱瘡を発病し、わずか六日で亡くなっています。その死亡率は三割にも上ります。手紙には、 

 「すぐに長右衛門自身が来られたし」  

との指示があり、それは当時、疱瘡にかかることがいかに深刻な出来事であるかを物語っています。  

日光社参での警戒で、庄屋は他出を禁じられ、長右衛門は大坂へ見舞にも行けません。使用人や村の医者玄喜を野里屋へ向かわせますが、長右衛門の心配は尽きません。 

 

長右衛門、勝二郎見舞に下る  

 

二十日になって、長右衛門は、日下村領主である本多氏の大坂蔵屋敷役人へ勝二郎の疱瘡見舞の許可を願い出ます。日帰りで許された長右衛門は翌日早朝より、日下村の船頭吉右衛門の舟で、大坂へ下ります。途中、住道で関所が出来ています。日光社参での警戒で要所に関所が出来ていたのです。  

大坂八軒家で舟を下り、早速、内本町橋詰町の野里屋へ勝二郎を見舞います。勝二郎は一時的に熱が下がり発疹が水疱となっていましたが、まだ予断を許さない状況です。 

 疱瘡の歴史 

流行し、「()(がさ)」と称し、江戸期には「痘瘡(とうそう)」「疱瘡(ほうそう)」と呼ばれました。最初高熱が四、五日続き、熱が下がると発疹が、顔から腕・胴・脚に広がっていきます。赤い斑点が水疱となり、二日ほどして水疱の中が膿になると再び高熱が出ます。この頃が最も危険な時期で、幼い子供のほとんどがこの高熱で亡くなります。八日目くらいから発疹がくぼんでかさぶたとなると熱が下がります。さらに三、四週間するとかさぶたが乾いて剥がれ落ちます。すると、その跡の皮膚にくぼみができ、いわゆるあばたという状態になります。美しい女性であっても、今までとは似ても似つかぬ醜い容貌になります。

特に女性は、疱瘡にかかると、縁談が破談になったり、一生不縁になることも多かったのです。発疹が目に及ぶと盲目になります。そうなると男子は座頭(座頭)女性は瞽女(ごぜ)といった芸人になるしか生きる道はありません。人々の人生を不幸に突き落とす病であったのです。

特に武家の場合は、跡継ぎの若君が疱瘡で亡くなると、その家は断絶となり、多くの家臣が浪人になり路頭に迷うことになります。そこで、大名家では、跡継ぎの若君を何とかして疱瘡から逃れさせようと必死になるのです。疱瘡に効くと聞けば、遠くから高価な良薬を取り寄せ、神社へのお参りを欠かさず、日夜神仏に祈り、疱瘡流行が近くに迫ってくると、若君を遠くへ避難させたり、涙ぐましい努力をします。それでもこの忌避すべき流行病から逃れることは困難だったのです。

江戸城二の丸の奥深くに隔離されている将軍の子供たちも、優秀な医師を揃えているにもかかわらず、ほとんどが疱瘡にかかっています。一一代将軍家斉は、一七人の側室から五五人の子供が生まれていますが、すべて疱瘡にかかっています。疱瘡だけでなく、麻疹、流行性感冒などの疫病にかかって、二歳までに二三人が亡くなっています。いかに将軍家とはいえ、病に対して無防備であったことは、庶民となんら変わりはなかったのです。 

 

古来より疱瘡の流行は度重なり、正徳元年(一七一一)の大流行では江戸・名古屋・京・大坂と、都市部で数千人という死者を出しました。恐怖のあまり、九州の大村藩などでは病者を山野の小屋に放置し、一定の看病人しか接触させず、それが結果として患者の隔離となり、流行を見なかったといわれます。それは古代から疫病が上陸する最前線の地域であったために、この疫病の流行性をいち早く見抜く術を知っていたのです。人々は、  

「こんな恐ろしい病は鬼神の仕業にちがいない!」  

と考え、疱瘡神や疱瘡地蔵を祀り、現代では考えられない迷信が流布しました。牛の肉や角ばかりでなく、糞を黒焼したものまでが特効薬として売り出されます。  

幕府も触書を出し、  

「黒焼きにした牛の糞を粉にし、白湯にて服用すべし。」  

と奨励しました。  

日下の旧家井上家には、  

「おだいもくをとなえいただく也」  

と朱書された「疱瘡の御守」が残されています。この中に牛の糞の黒焼が入っているのです。  

現代から見れば、  

「なんて不衛生な!」  

というところですよね。  

しかし、人々はこの病の恐ろしさに、効くと言われれば何でも飛びついたのです。また患者の布団や寝間着まで赤色にし、鎮西八郎為朝を描いた赤い疱瘡絵を護符として枕元に飾ることが流行しました。 

江戸中期には疱瘡研究も進み、香月牛山の『小児必用養育草』や、橘南渓の『痘瘡水鏡録』などの医学書が刊行されました。寛政元年(一七八九)には緒方春朔が疱瘡のかさぶたを粉にして鼻から吸引させる人痘種痘に成功します。ジェンナーの牛痘種痘に先立つこと六年でした。  

「日本の医療は進んでいた!」  

ということですね。 

 日本に種痘が伝えられた嘉永二年(一八四九)には、大坂で緒方洪庵が「除痘館」を開き、種痘を広めます。けれどもこの種痘も、 

「種痘をすると牛になってしまうらしいで!」  

という風評が立ち、  

「それは怖いわー! うちはやめときまっさ!」  

と誰もが怖がって受けません。人々はまだまだ迷信に支配されていたのです。そこで各地で「種痘宣伝の版画」が作られ、種痘の効能をわかりやすく教え広めました。  

その版画には、  

牛にまたがった子供が種痘用の針で疱瘡神を追っ払っています。賛には、  

「種痘を施せば、千に一つも損じることなく、疱瘡を免れる」とあり、巻末に次の歌があります。  

親の苦も抜けて楽しむ嬰児の千代の命を結ぶ尊さ  

この版画は現静岡県の医家川田家に遺されたものです。 

 

川田鴻斎は嘉永三年(一八五〇)にこの地で初めて種痘を実施した人物です。村人に種痘を怖がらずに受けるように諭し、その効用を宣伝する版画を作って、啓蒙に役立てたのです。 こうした地域の医者たちの地道な努力があってこそ、次第に種痘が人々の間に広まり、少しずつ疱瘡が克服されていったのです。 

 

長右衛門大忙し 

 

畿内において疱瘡の伝染性さえ知られていなかった享保の時代には、まだ疱瘡患者を隔離するという観念はなく、勝二郎は、大勢の奉公人のいる野里屋で手厚い看護を受けています。長右衛門が見舞った時、勝二郎は発病の第一段階で、このころに死亡することが多いのです。 

 

長右衛門は心引かれながらもさかい屋という常宿へ帰り酒を飲んでいます。長右衛門はかなりの酒好きで、何度も日記に  

「酒を禁ず」  

と大きな字で書いていながら、二・三日すると  

「夜四ツ時(十時)まで酒(た)べ遊び候」 

とあって、全く止められないのです。  

この時は、日光社参による厳戒態勢の真最中、庄屋という責務の過酷さと、大切な長男を思う情とで、ここらで一杯ひっかけないと神経がもたない状態だったのでしょう。 

 

とんぼ返りで午後十時に帰った彼はすぐに会所に出て、日光社参の警戒の陣頭指揮に当たっています。二十二日、日光社参の一大イベントも終わり、会所で村人と無事祝いのささやかな食事を済ませ、ようやく自宅へ帰ります。長右衛門はやっとゆっくり寝ることができたのです。 
 

勝二郎快方に向かう 

 

二十四日、勝二郎は再び高熱が出て、最も危険な段階です。長右衛門は年貢納めのために領主本多氏の大坂蔵屋敷へ出て、そのまま野里屋で勝二郎の看病に泊り込みます。翌日、勝二郎は少し熱が下がります。長右衛門は勝二郎の看病で疲れ果てたのか、駕籠で日下村へ帰っています。    

 

翌日勝二郎の様態は好転し、与えていた高麗人参も減らします。この時代、治療薬として高麗人参が最高のもので、一匁(三・七五㌘)で約一両(一〇万円前後)という高価なものでした。発病より十日目、このあと勝二郎の発疹が乾き、かさぶたとなるのを待つだけです。大坂の医者、見冝老によると  

「峠は越したので、もはや気づかいはおまへん」  

とのことで、長右衛門もようやく肩の荷が下りたのです。 

 

勝二郎、(ささ)(ゆ)にかかる 

 

五月二日、勝二郎は快復に向かい、疱瘡の一番湯にかかります。これは酒湯といわれる民間療法です。『日本疾病史』(富士川遊『日本疾病史』1979)によると、米のとぎ汁に少量の酒や薬草、それにネズミの糞を入れた湯を病人にかけ、手拭で体を拭くというものです。この頃には膿をもった発疹の痛みと猛烈な痒みで患者は苦しみます。それを和らげるためで、危機を脱した祝儀として疱瘡に不可欠の行事となっていたのですが、現代医学から言えば、  

「体力の弱っている時に、そんな不衛生な湯をかけるなんて、かえって病状が悪化する!」  

という悪しき習慣でした。その通り、五代将軍綱吉は六四才で麻疹にかかり、酒湯にかかった翌日に急逝しています。  

酒湯は将軍家・大名家では盛大な儀式となります。この年三月、一六才の将軍吉宗の世子、後の九代将軍家重が疱瘡にかかったのですが、その酒湯の儀には、諸大名から膨大な進物が献上されました。 

 

それは大名だけではないのです。勝二郎の養父野里屋四郎左衛門はこの年三月末から、大坂南組惣年寄として家重の疱瘡御快癒祝儀のために江戸に下っていたのです。東海道の名所見物も兼ね、帰るのは七月初めでした。 

 

この後勝二郎は、四日に二番湯、六日に三番湯とかかり、そのつど長右衛門家から祝いとして赤飯を持たせ、野里屋からも赤飯が届きます。

 

大坂でも疱瘡流行 

 

長右衛門の親戚である紙問屋帯屋の子息元之助も疱瘡にかかったという知せが入ります。大坂でも疱瘡が流行し始めたのです。日下村の医者玄喜も大坂へ治療に呼ばれていきます。長右衛門の親戚である天王寺屋弥三郎も疱瘡にかかり、大坂籠屋町の日比自秀という疱瘡医者にかかっています。 

 

大坂などの都市部には痘科専門医がいたのですが、流行の際には疱瘡の専門医は大忙しです。いずれも高麗人参を用い、発疹の張りが弱いと量を増やします。発疹が出きらずに、内攻することが最も危険であったのです。そこで発疹が赤く出切るようにとの願いを込めて、患者の身の回りを赤いもので揃えたのです。 
 

人々の助け合い 

 

長右衛門が親戚の額田の寿松を見舞うと、大坂で疱瘡にかかった親戚、天王寺屋弥三郎に付き添っていて留守です。こうした行為が流行を拡大させるのです。しかし義理を欠くということが最も嫌われた時代、親類、村人同士の交際の濃密さは現在の比ではありません。親戚や近所の人が疱瘡と聞くと、すぐさま駆け付けるのです。 

 

甲斐(山梨)や下野(栃木)では疱瘡に罹ると患者の家に村人が集まり、患者の枕辺を贈物で飾り立てて飲んだり食べたり、賑やかに騒ぎ立てて疱瘡神を追い払う「疱瘡祭」が行われました。すると村中に疱瘡が流行るのです。 

 

このころには、連日長右衛門家へも近隣村々から、勝二郎疱瘡の見舞客が大勢来訪します。疱瘡にかかると、村中から見舞品が贈られます。  

 

善根寺村の庄屋向井家には文政四年(一八二一)の「市次郎疱瘡見舞之留」という文書が残されています。しんこ(米の粉で作った菓子)・饅頭・餅・金平糖・酒・赤飯・鯛・枇杷など、実に五三人の村人から贈られた見舞品が書き上げられています。 

 

疱瘡は河内でも猛威をふるい、加納村で子どもが高熱で危険な状態になり、  

「善根寺村の足立さんが持っている「うにかう」を分けてもらえまへんか。」  

と頼み込んできます。「うにかう」は「ウニコール」といい、イッカクという北極海にいる鯨の牙から製した疱瘡の特効薬です。これは中国から貿易で入ってくるので大変高価なものです。当時豪農として知られた足立家だから持っていたのです。命にかかわるのですから、足立家は分けてあげます。この子は幸い命を取り留めたようです。     ところが日下村ではとうとう死者が出たのです。  

「喜八の息子が疱瘡で相果てました。」  

と長右衛門に知せが入ります。早速その日に日下川の堤で火葬します。普通の葬礼の時には日下墓地の火屋(ひや)という火葬場で火葬するのですが、疱瘡という疫病を避けたいという思いからこうした川の土手での火葬となったのです。 

 疱瘡死亡者の約七割は乳幼児といわれ、抵抗力のない幼児はなす術もなく果てていったのです。 
 

勝二郎の母佳世、大坂へ 

 

この時期、勝二郎の母親の佳世は、母親としての心痛も並たいていではなかったはずですが、彼女はこの後、勝二郎が回復に向かってから初めて大坂へお礼に出かけます。 

 五月十九日、佳世が早朝に大坂へ立ちます。三人駕籠で、はさみ箱(荷物入れの箱)を担ぐ男衆と、お供の女衆(おとこし         おなごし)を連れて総勢七人連れです。村の庄屋の「ごりょんさん」が大坂へ出かけるとなると、なんと大そうなことでしょう。  

野里屋で家族や大勢の使用人に扇子・木綿の反物、子どもには人形などのお礼の品物を贈ります。親戚の小橋屋や帯屋へもお礼に寄ります。 

 

佳世はこの時三五才、一九才から五男三女を生み、うち一男三女は早世しています。この前年に四男を産んだばかりです。長右衛門は日下村の庄屋として大坂へは度々出かけ、周辺の寺社参詣、物見遊山もしていますが、佳世を同行したことは一度もありません。  

江戸時代の女性の行動力というのがいかに限られたものであったかがわかります。大勢の子を産み、何人かは幼いうちに亡くし、その悲しみに耐えつつ、今よりはるかに重労働に満ちた家事と育児をこなし、その上に広い田畑を所有する森家の農業経営も采配しなければなりません。  

大勢の奉公人を指揮して、庄屋として多忙な夫長右衛門を支え、家を守ることだけがこの時代の女性に求められたことでした。今の女性のように、自分の楽しみのために外出するなんてことは考えられなかったことでしょう。 

 

勝二郎全快  

 

快復後七五日が疱瘡の忌明けとされていました。勝二郎はその期間も過ぎた七月三日に日下村に帰り、本復祝いをします。長右衛門は肴を買い込んで迎えます。  

「疱瘡は器量定め、麻疹は命定め」  

といわれた江戸時代、こうした流行病へかかることは「お(やく)」と呼ばれて多くの人が一度は経験する避けがたい災禍でした。それを無事平癒するということがいかに喜ばしいことであったかがわかります。八月八日には餅を搗き、  

「お厄をのがれてありがたいこっちゃ!」  

と方々へ配ります。   

 

そしてこの時、命拾いをした勝二郎こそ、この後、頼山陽と並び称される河内に名高い漢詩人として大成する「生駒山人」その人なのです。  

 

おわりに 

 

享保時代は、種痘によって人々が疱瘡の脅威から逃れるにはまだ一〇〇年余りの時が必要でした。勝二郎の疱瘡は神に願い、迷信に頼るしかなかった享保のころの人々の必死な思いを伝えています。疱瘡にかかった隣人のその苦しみを共有することこそ、当時の共同体社会の人としてのとるべき行動でした。その行為がまたより流行を拡大させたという悲運な事情もありました。しかし村人の健康管理を意識し、薬を融通し合い、人々を災禍から救おうとしたのも、またその村々の助け合いでした。 

 

多くの人がなす術もなく倒れていく中で、丹念な史料の収集と地道な研究によってその伝染性の解明にたどり着いた優れた医者たちもいました。今日撲滅されたといわれる天然痘に、江戸時代の人々が果敢に立ち向かった一つの姿を垣間見ることが出来ます。 

 

けれど、日本の疫病の流行はまだ同時期のヨーロッパと比べるとかなりましなのです。中世以来のヨーロッパの都市、ロンドンやパリでは排泄物やゴミを川や道路にそのまま捨てていました。そしてその川の水を飲料水にしていたので、チフス、ペストやコレラなどの恐ろしい感染症が爆発的に流行します。 

 

この劣悪な衛生環境で、病は道路や水路に沿って拡大し、特に貧民街での被害が著しいものになりました。日本の疱瘡での死者が大流行の時で、数千人ですが、中世のヨーロッパでのペストの流行では数千万人という死者が出て、人口が三分の二に減ったと言われます。 

 

それにひきかえ、江戸時代の日本では、人間の排泄物を肥料としてリサイクルしていました。その上に江戸では上水道がありましたし、日下村では井戸水をつかっていますので、飲み水は清潔です。しかもゴミは埋め立て地に集めるという合理的なゴミ処理をしていました。だからヨーロッパのような感染症の爆発的な流行を見なかったのです。 

 

元禄時代(一六九〇年代)に日本を訪れたドイツ人のケンペルは、

 

日本の街路は両側に松の木が植えられていて、排水路があり、路傍には公衆便所があって旅人はそこで用をたし、それらは百姓が肥料として持ち去るので、街路は常に清潔に維持されている。(ヨーゼフクライナー編『ケンペルの見たトクガワジャパン』1992) 

 

と書いています。 

 

テキスト ボックス:  
      江戸時代の街道
『木曽海道六拾九次之内 加納』歌川広重筆
英泉版
また、英国総領事のオールコックは幕末の日本各地を訪ねてこう書き残しています。 

 

 「日本人はきれい好きで度々体を洗い、清潔な衣服を身にまとっている。街路に不潔なものは見当たらず、衛生的ということにつけては、他の東洋民族よりも大いに優っている。」(オールコック 『大君の都ー幕末日本滞在記』出口光朔訳1962) 

 

こうした外国人の書きのこした文献を見ても、日本人はきれい好きで、当時の日本はいわば世界でも最も清潔な国であったといっても過言ではないでしょう。 

      

疱瘡祭り  『江戸病草紙』
種痘啓蒙のための版画  『江戸病草紙』
疱瘡の赤絵   『江戸病草紙』
ウニコウの原料となるイッカク獣 

第3回 日下村離婚事情

第三回 日下村離婚事情 

現代は離婚はそれほど大変なことではなく、女性もよりよい暮らしを求めて、新しい出発をすることに何のためらいもなく、また離婚後のシングルマザーに対して福祉的な支援も充実しています。では江戸時代の離婚の事情はどのようなものであったのか、それを『日下村森家庄屋日記』から探ってみましょう。    

1 離婚率 

 離婚率は女性の地位の高い国ほど増加の傾向があるようです。わが国では、一九五〇年で離婚率(人口一〇〇〇人あたりの離婚件数)は約一㌫、一九九八年においては約二㌫と二倍の伸びです。2002年度の離婚件数はこれまでの最多を更新し、二八万九〇〇〇件。離婚率二・三㌫と増加の一途でした。この増加は戦後女性の経済的自立が進み、社会進出が可能になったことが大きいのです。しかし、これ以後は減少に転じ、二〇一七年度の離婚率は一・七㌫と落ち着いています。

因みに世界に目を向けますと、ロシア四・五㌫、デンマーク三・四㌫、米国二・八㌫、スェーデン二・七㌫(二〇一七年度)と諸外国の離婚率は日本よりかなり高く、日本は世界では一〇位となっています。では江戸時代はどうだったのでしょう。『江戸の農民生活史』(速水融1988)から江戸時代の離婚の実態を探ってみましょう。

奥州安積郡下守屋村(福島県)の近世中期から後期にかけての宗旨人別帳を素材とした統計では初婚での離婚者は結婚数の三七㌫に及びます。その離婚者の再婚率は八〇㌫と、ほとんどの離婚者はあまり時を置かず再婚するのです。

江戸時代の意外な離婚の多さに驚きますが、この数字は初婚平均年齢が女子で一四才、男子で一七才という早婚と、出稼ぎ奉公が多いという東北地方の特色が大きく存在するのです。美濃国西条村(岐阜県)では、離婚は夫婦九組に一組の割合で行われ、天明元年(1781)からの四十年間では五組に一組は離婚していて、いずれも若年での離婚者はその七割以上が再婚しています。

武家についての統計では、武士の系譜『寛政重修諸家譜』を素材として、離婚数は結婚数の一一㌫、離婚者の再婚率五八㌫という数字が出ています。宇和島藩の記録では、四割が離婚経験者、死別や離婚で二度以上結婚した人が六割、三度、四度と再婚する人も二割いて、結婚が二十年継続したものは四分の一にすぎないのです。武士の妻の財産はいつ離婚してもいいように別会計であったし、寿命の短さと離婚の多さから江戸時代に金婚式を迎える夫婦は非常に稀有、というよりほとんどいないという状態だったのです。

人口一〇〇〇人あたりの離婚率としては明治十六年からの統計があり、現代よりもかなりの高率を示しています。明治十六年の三・三㌫を最高に三十一年に二・二㌫と、やっと現代の数字にまで下りますが、この高率は江戸時代の名残りと考えられています。江戸時代は以外にも現代をしのぐ離婚社会であったことに驚かされますが、その背景には何があったのでしょう。

2 近世離婚事情

一般的に一昔前には、離婚された妻は泣く泣く実家に帰る哀れな女性というイメージで捉えられがちですが、江戸時代は全くそういうことはないのです。江戸時代の庶民は女性も男性と変わらぬ労働力という点で高く評価される存在であり、離婚が女性にとってマイナス要因となることはなく、タブー視されることもなかったのです。

離婚は夫から「三くだり半」という離縁状を交付されることで成立しました。

 

  りえん状

一其方事(そのほうこと)、我ら(われら)勝手(かって)に付(つ)

 此度(このた)離縁(りえん)いたし候(そ)、然(しか)る上(うえ)は

 向後何方(こうごいずかた)へ縁付き(えんづき)候(そうろう)とも、差構(さしかまえ)

 これなく候(そうろう)、依(よっ)て件(くだん)の如し(ごとし)

           夫

      (高木侃『三くだり半と離切寺』1992)   

 

これは「あなたを私の方の理由によって、この度離婚しますので、今後はあなたがどこへ縁組しようと構いません。」という意味でした。離婚の際の離縁状は夫による一方的な権利であったのではなく、妻への義務でした。離縁状は次の再婚のために是非とも必要な、いわば再婚許可状だったのです。江戸時代の法典である『公事方(くじかた)御定書(おさだめがき)』(寛保二年{1742})によると、離縁状なしで再婚したものは、男は家財取り上げ・追放、女は髪を剃って親元へ引き渡し、と厳しい処罰を受けることになっていました。

離縁状さえあれば妻は夫の支配から逃れ、どこへでも再婚出来たので、離婚を望む妻は実家や村の庄屋に斡旋を頼み、また駆け込寺などへ駆け込んで、離縁状の交付を求めることが出来ました。いわば離婚の意思を持つ妻の権利はかなり認められていたのです。江戸時代の離婚は夫が勝手に決める専権行為ではなく、夫婦とその血縁・地縁の人々を巻き込んで協議した上での、いわば「熟談離婚」であったのです。(高木侃『三くだり半と縁切寺』1992)

その上、当時の平均寿命が美濃国西条村の記録で三八~九才と、現在の約半分という事情があり、また女性の出産の際の死亡率の高さもあって、再婚の道は現在よりも広く開かれていました。百姓の場合、幼子を遺して妻に先立たれた夫は、すぐに再婚しなければ暮らしが成り立たないのです。離婚者の七〇㌫から八〇㌫が再婚していく理由はそこにあるのです。また離婚するまでの結婚年数は、木曽湯舟沢村での十八世紀前半の記録では平均四年です。(前掲『江戸の農民生活史』)これは結婚が当人同士より親の意志によって決まるという事情によるのです。

武家の場合を見ますと事情はもっと深刻です。武家の嫡子が家を相続すると、次男三男は武士として生きる為には他家へ養子に入るしか道はありません。そのために剣術を習い、有能な手腕を発揮して、いい養子口のお呼びがかかるように努力するわけです。実家が五〇石くらいの零細な家の次男三男でも、将来が有望であれば、時には三〇〇石とか五〇〇石という大家から養子の口がかかることがあります。

それは出世を意味するのですから、次男三男は飛びついて養子に行きます。でもそこの家付き娘さんがやはり自分の家のほうが上だと思うので上から目線で偉そうにします。それでも養子はただひたすら我慢するしかないのです。でも耐える人ばかりではないですから、だんだん夫婦中が悪くなります。そうすると離婚になります。

そういうわけで、養子を迎えても、何度も離縁して三婚・四婚を経験する女性も武士の家では珍しくはなかったのです。中には女性が何度も離縁を経験して年も三十代半ばになっているのに、新しく迎えた養子が二十代前半というようなことも普通にあったのです。そういう結婚の果ての悲劇が、藤沢周平の時代小説によく描かれています。

家を継ぐということが最重要で、結婚は個人の問題ではなかったのです。そこに離婚も再婚も簡単に行われて、しかも多かったという理由があります。当時の武家の女性が儒教の「貞女二夫にまみえず」という教えを守って貞淑であったなんていうのは全くのウソなのです。

 

3 離縁状にみる離婚理由

 

では江戸時代の離婚の理由はどうだったのでしょう。「三くだり半」には「我ら勝手につき」とか「よんどころなき子細につき」などと記され、離婚理由を書かないのが普通です。この「我ら勝手につき」という意味は「夫の一方的意思」ということではなく、「妻の行跡が離婚の理由ではない」と表明することで、女性の将来の再婚に障害とならないことを目的としています。

従って離縁状の文面は「我ら勝手」の他は「悪縁」「夫妻の望なく」「薄縁」「不熟」など抽象的な表現が多く、具体的な理由を記したものは少ないようです。わずかに付随文書などで伺えるその理由は、家庭内不和、夫の乱暴や妻の家出、一方の不貞と、いずれもいつの時代にも変わらぬ事情がありました。また家事に不向きであるとか、親舅と不和となりこれを見捨て、或いはわがままといった妻側の理由によるものもわずかですが見受けられます。

 

4 近世離婚女性の権利

 

 離婚に際しての女性の権利はどうだったのでしょう。『徳川禁令考』(司法省 明治十一~二十三年)には

 

「女性が長年苦労をしたにも関らず、夫の不法による離別においては、女房持参の財産とともに、家の財産を納得いくほどのものを持ち出させること」

 

という掟条目があり、妻は離婚に際してその事情により、持参財産のみならず、婚家の財産も受け取る権利があったのです。また夫の不法または意思による離婚の場合には若干の慰謝料や子供の養育費を受け取っている例があります。かなり女性の権利は認められていたようです。

また鎌倉の東慶寺や群馬県の満徳寺に代表される縁切寺が夫の非法から逃れて離婚を望む女性を庇護し、その再出発を助ける役目を果たしていました。縁切寺に駆け込むと、三年の修行の後に、夫から離縁状を差し出させ、離縁を承諾させることが寺法として認められていたのです。地方でも寺社や陣屋、庄屋の家が駆け込み先になっていました。このシステムは世界でも珍しい進んだものだったのです。

いわゆる男尊女卑・男性優位のイメージで捉えられがちな江戸時代ですが、実際は以外にもたくましく、権利を勝ち取っていた女性像が浮かび上がります。だがすべての女性がそうだったのでしょうか。その辺のところを探るために、わが日下村の離婚事情を見てみましょう。

5 日下村離婚事情

①    日下村久作の訴訟

 

日下村でも離婚問題がきっかけとなって蔵屋敷へ訴訟という事態にまで至った例があります。享保十三年のまだ肌寒さを残す二月の始め、長右衛門は村人久作を召連れ、日下村領主本多氏の大坂蔵屋敷へ訴状を差出します。訴訟は受付けられ、十八日に相手方出雲井徳兵衛とともに出頭を命じられます。この訴訟の内容は、次のようなものでした。

 日下村久作の妹かやは九年前に日下村の三㌔南にある出雲井村の徳兵衛へ嫁ぎ、二人の倅をもうけます。ところが日ごろから病身のため生活に不便であるとして、夫徳兵衛は離婚を申し出、実家の兄久作に身柄を引き取ってくれという言い分です。その養生料として銀200匁を支払うというのです。

 離婚の理由としてもこれは全く夫の身勝手としか言いようがなく、現在では、病気による離婚理由としては特種な疾患の場合を除き、成り立たない類のものです。しかし江戸時代の農村女性は働き手であることが重要で、それがないことは離婚理由になり得たのです。女性が独立して生活する手段が奉公などに限られていた時代、かやのような病弱な離婚女性の身柄を引き受けるのは実家しかありません。

実家の兄も病身の妹を養う財力もないものの、養生料二〇〇匁という金をもらうことでやっと納得したようです。それは捨ておくに忍びない肉親の情でもあったのです。 しかしかやを引き取ったものの、その金はいくら催促しても支払われないので、蔵屋敷への訴訟となったのです。 

②    蔵屋敷にて対決

出頭日に大坂蔵屋敷へ双方が出頭したところ、夫の徳兵衛は、妻かやが養生料の預かり手形の証人となった出雲井村の権兵衛と不義をしたように書付けた返答書を提出します。そこで、かや・権兵衛と共に三月五日に出頭を命じられます。三月五日、かや・権兵衛と両村庄屋が出頭します。徳兵衛は権兵衛とかやの不義のみならず、二人が結託して徳兵衛の印形を盗み取り、勝手に手形を書き換えたように申し立てたのです。かやと権兵衛はそのような事実がないと釈明します。

役人の検討の結果、徳兵衛の申し出は事実ではなく、手形を書いたのは徳兵衛自身であり、しかもその金額を改ざんしたのも彼でした。これで徳兵衛が不届きということになり、七日後に出頭を言い渡されます。徳兵衛に厳しい処罰がなされることは確かでしょう。このような時には、「内済(ないさい)」という示談の形で解決に持ち込むのが普通でした。

蔵屋敷の近くの宿へ帰り、日下村・出雲井村両庄屋の仲介により、お互いに話し合いでの解決に持ち込まれ、一七〇匁で双方が納得します。これで蔵屋敷への訴訟の取り下げを願い出て、双方納得の示談解決となりました。 

 三月二十六日徳兵衛より一七〇匁を受取り、蔵屋敷へその旨お届けし、これで一件落着となります。

 

③     理不尽な夫徳兵衛

徳兵衛は病弱の妻を非情にも離縁し、その訴訟の際に自分に有利なように、妻と、手形の証人となった権兵衛とのありもしない不義を言い出し、その不義の相手と妻とが印形を盗み出して勝手に手形を改ざんしたように言い立てたのです。   

その実、手形の金額を書き換えたのは徳兵衛自身でした。妻への配慮など一切なく、悪意さえ感じます。このような卑怯千万な夫を持ったかやの身の上は、まさに不幸としか言いようのないものでした。

④     養生料一七〇匁

この一七〇匁という金額について考えて見ましょう。現代の離婚の際に支払われる金額については、慰謝料と財産分与を含めて、婚姻期間十年の夫婦で平均約四〇〇万円です。江戸時代も若干の金銭が支払われていますが、慰謝料として二両から五両、妻の持参財産返還を含めて一五両などです。米換算で一両七万円としても現代よりかなり低いのです。ではかやの養生料一七〇匁の当時の価値を考えてみましょう。

当時蔵屋敷での入札で落とされる米一石の値段は四五匁前後であり、この価格を現在の米一石の平均価格約七万円で換算してみると一匁が約一五五五円であり、一七〇匁は二六万円余りです。現在ではこの金額で人一人が暮らせるのは切り詰めて二ヶ月ですが、江戸時代の社会を考えて見ると事情は違ってきます。

当時の奉公人の給金を見ると、享保十二年十二月に長右衛門家が雇い入れた下女には一年間の給金として五〇匁(約八万円)を支払っています。ではこの女性給金から見ると一七〇匁という金額は約三年間の給金に匹敵します。

現代からはあまりにも低い奉公人給金ですが、奉公人は衣食住を保証されている上に、現代のようにすべてを買入れる消費生活とは違い、当時は田畑からの作物で自給自足し、米一石あれば人一人が一年間食べていける社会でした。では一七〇匁で米四石が買えるのですから、この養生料でかやの兄久作が納得したのもうなずけるし、徳兵衛も破格に低い金額を提示したとはいえません。だがこの金銭でかやの不幸はあがなわれたのでしょうか。

6 人権思想と女性解放への道 

この金銭は妻かやに支払われた慰謝料ではなく、かやを引き取る実家の兄久作に養生料として支払われたのです。かやは自分の意思も権利もないがしろにされ、病弱の身をまるで犬か猫のようにお金をつけて実家に戻されたのです。

離婚に際し、しっかりと権利を勝ち取った女性もいたでしょうが、それは現代のような社会的な意味での人権獲得では決してありません。かやの例に見ても、女性の権利という面では当時は全く未開の時代でした。第一、女であれ、男であれ、人間としての平等な権利というような概念が、身分制と格式に縛られた江戸時代にあり得たでしょうか。百姓は武士の支配の前にひれ伏すしかなかった時代です。

かやのこの訴訟自体にしても離婚理由が争われたのではなく、養生料不払いが争われたのです。女性の権利を守る離婚訴訟などこの時代にはあり得なかったのです。かやの受けた理不尽な扱いは、「持って生まれた不幸な運命」という個人的な問題として片づけられたのです。

庶民の人権獲得という問題は明治期まで待たなければなりませんでした。幕末から明治にかけての民衆による世直し騒動は、貧富の格差の除去、土地の平等所有を要求しました。だが明治新政府がそうした要求を拒否した時、そのエネルギーは自由民権運動となって燃え上がったのです。

男性が自由平等を勝ち取る闘いに挑んでいた時、平塚らいちょうが「元始女性は太陽であった」と宣言し、この時からようやく女性解放への道を歩みだしたのです。しかし道のりはまだはるかでした。明治民法が夫権優位と男尊女卑、女性は貞淑であるべきという儒教的婦徳を強制し、家制度の中に女性を押し込むことになったのです。

人口一〇〇〇人あたりの離婚率は明治十六年の三・三㌫が最高で、明治三十一年に民法が施行されるとその翌三十二年には一・五㌫と、それ迄の半分に激減します。江戸時代にはたやすい行為であった離婚が、明治期になってかえって女性にとって高いハードルとなったのです。明治から昭和初期までの女性は、婚家や実家を取り巻く世間体に縛られ、また離婚後の自立の困難もあって、ただ不幸な結婚に耐えるしかなかったのです。

昭和初期までの女性は一人ひとりがみな、どこそこの娘や嫁、姑であって家、夫、親の付属物でしかなかったのです。村の構成員であり、家族の中の働き手であり、そこでの仕事をやり遂げることだけが求められたのです。本当に自分のやりたい事をして自分らしく生きたいと思っても、村や家にがんじがらめに拘束されています。

それでも自分の意志を貫こうとすれば家を飛び出すしかないわけです。その勇気をもった女性もいたのですが、そこには轟々たる世間の非難と軽蔑がまちかまえていたのです。しかも女性一人で生きていける経済力を獲得するのはたやすい事でありませんでした。

特に農村の女性の置かれていた境遇は悲惨なものでした。農村に嫁ぐと、夫や姑の言いなりになってひたすら働くしかありません。米櫃も味噌樽や漬物樽も姑の許可なしには触ることもできません。昼食の時にもお膳の前に座ることも許されず、土間の上り口に腰かけてご飯をかきこみ、箸を置くとすぐに野良仕事や機織り仕事に戻るのです。

幼子に母乳を飲ませるにも、おむつを替えるにも、自分がトイレに行くにも、急いで済ませないと姑のきつい小言が待ち構えています。朝も暗いうちから夜中まで、一時たりとも自分のための時間はありません。そうして稼いでも、自分の自由になるお金は一銭も持たせてもらえないのです。

妊娠中でも休むこともできません。大きなお腹で村の共同作業に出て、重い俵を担いで集会所へ運び、田んぼの草刈りに出て、カマを持ったまま妊娠中毒で亡くなった女性もいました。婚家での針の筵のようなつらい暮らしに母乳も出なくなり、やせ細った赤子を抱いて巡礼に出るしかなかった女性もいました。家々を廻ると、昼間に家にいるのは機織りをしている女性か、働くことの出来なくなった高齢女性です。赤子を背負った巡礼を見て、これはよほど我慢できないことがあって家を飛び出してきたに違いない、ということが自分の経験で理解できるのですから、みんな親切に米や芋や餅をくれるのです。婚家で餓死寸前だった子供を巡礼で育てたのです。(山代巴『荷車の歌』1959) 

今は観光化している巡礼ですが、昔は不治の病や不行跡で故郷を追われた人々が、行き倒れを覚悟してたどった死出の旅でした。その遍路道に、耐えきれない暮らしから逃れて、子供連れで歩く女性の姿が珍しくなかったのです。

この希望の持てない社会にあって女性を解放へ導くことが重要だと気づいた女性たちがいました。戦後二十年代から三十年代にかけて、各地の村々で女性集会がもたれ、そこで女性自身が人権に目覚め、独立した個人として生きることが大切だと啓蒙していったのです。

まず、広い農家の中に自分の居場所を作ることからはじめます。物置だった中二階に自分の部屋を作り、机を置いて新聞を読んだり、手紙をかいたり、昼から大の字に寝たり、今までは考えられないことを女性が集団で実行しだすのです。誰にも邪魔されずに自らを考える場所を持つということ、それが人権への目覚めでした。社会の中で一人の人間として権利に目覚め、自分の考えを主張し、率直にものを言える人間になろう。そこから明るい村、新しいふるさとが出来てくるのだと、地域の女性たちに呼びかけたのです。(「歴史を負って現在に向う」山代巴『荷車の歌』1990)

こうした各地での女性解放運動での長い闘いの後、戦後の婦人参政権獲得という大きな成果によってようやく扉は開かれたのです。そして現代、女性の権利は大幅に認められるようになりました。多くの女性が外へ出て働き、また様々な活動をしていますが、それは他ならぬ自分の人生の充実のためなのです。

現在の離婚申立ては三分の二が妻側からで、その理由も「性格の不一致」が最多で、「生活費を入れない」「精神的な虐待」「暴力」がそれに次いでいます。男性側の不実に女性が我慢せず対等な権利を主張するようになったのです。現代は離婚家庭を保護する社会システムがあり、男女雇用機会均等法により、女性の自立が容易となっています。今や離婚をマイナスと考える人はいません。離婚女性の権利獲得と自立という点では江戸時代とは雲泥の差といえます。

かやの離婚問題が、女性解放への長い道程を振り返らせてくれました。今我々が当然の如く与えられている権利が、江戸時代のかやのような女性たち、また明治以後も村と家の重圧に堪えるしかなかった多くの女性たちの悲惨な運命を踏み台にして得られたものなのです。そして戦前まで村を覆っていた深い闇を切り開いてきた勇気ある女性たちの努力によって勝ち取られたものなのです。先輩たちの辿ってきたその歴史に誇りをもって、これからも大切に伝えていくことが必要なことではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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妻の父に離縁状を書けと迫られる夫 『三くだり半と縁切り状』高木侃
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