会報「くさか史風」第4号

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河内の領主・曽我氏一族の軌跡 浜田昭子

四 河内の領主・曽我氏一族の軌跡

                  浜田昭子  

はじめに

 日下村の領主として最も名高いのは、曽我(そが)丹波(たんばの)守(かみ)古佑(ひさすけ)である。寛永十一年(一六三四)大坂西町奉行となった曽我丹波守古佑は、その役知として支配した日下村で、領民に慈しみに満ちた善政を行い、その没後、神として崇められ、丹波神社に祀られている。今回、曽我氏の最後の当主であった曽我又左衛門永佑も、福万寺村において領民に慕われる領主として、顕彰碑が建てられていることを知った。河内の領主として支配した五ヶ村のうち、二つの村から顕彰されることになった曽我氏一族が、どのような来歴と事績を遺したのかを検証したい。

 

曽我氏の系譜

別表のごとく、曽我氏は初代祐信が鎌倉将軍頼朝に仕え、三代祐重は、鎌倉幕府と後鳥羽上皇との戦いである承久の乱(承久三年〈一二二一〉)で戦死している。四代祐盛から六代時之までは皇族将軍に仕えている。鎌倉幕府が滅亡の後、七代師助は足利尊氏に仕え、八代氏助から一三代助乗まで足利将軍家の奉公衆として仕えた。一三代助乗は足利義晴・義輝に仕えながら、室町古式の書札法式の集積に努め、その子一四代尚祐は、室町幕府没落の後、父と共に室町古式の書札法式を奏上することで、豊臣秀吉、さらに徳川家康に召し抱えられることになった。以後曽我氏は徳川将軍家旗本として明治に至るまで河内の領主であり続けた。

曽我氏は、鎌倉将軍頼朝に仕えた初代から、鎌倉将軍家、室町将軍家、徳川将軍家と、常にその時代の頂点を極めた人物を主君としている。処世術に長けた生き方であるが、その陰には、一三代助乗と一四代尚祐父子の、書札法式に精通する能力を高く評価されたことが大きく寄与し、尚祐が家康に故実家として登用されて運が開けたのである。

その子一五代古祐が祖父・父の蓄積した成果を、曽我流書札法式として大成したことで、曽我氏は徳川将軍家旗本としての地位を確固たるものにしたのである。

 

故実家としての曽我氏―曽我流書札法式

中世以来、官位秩序、身分差に応じた書札の様式上の格差の規定を定めたものが書札礼(しょさつれい)である。鎌倉期に公家社会で、公的な「弘安(こうあん)礼節(れいせつ)」が成立し、室町期には家格秩序の整備と共に、武家社会においても書札礼が成立する。室町期に中央に成立した書札礼は、故実家によって各地域へ伝播していった。戦国大名においても、文書の授受が増加し、合戦の実情から、必要に応じて各家に書札礼が成立する。近世においては、そうした各家に伝えられた書札礼を継承する曽我氏が曽我流書札法式を大成し、江戸幕府右筆の規範となった。(小久保嘉紀「日本中世書札礼成立の契機」『HERSETEC』1・2名古屋大学院研究科2007)

曽我氏の第一四代尚祐は、父である第一三代曽我助乗の集積した書札法式の編纂に努めた人物であった。彼は幼少時から一五代将軍足利義昭の側近として仕え、室町幕府滅亡後は織田信雄に仕え、文禄四年(一五九五)に豊臣秀吉に足利古来の書札法式を奏上することで、伊勢飯野郡に四〇〇石を賜った。さらに、慶長五年(一六〇〇)には家康から千石を賜り、故実家として勅仕することになった。

慶長年間、徳川家康が永井直勝に命じて、新たな書札礼を作成させるために、室町幕府の書札法式を調査させたが、命に応じて室町家式三巻を進上したのは、細川幽斎と曽我尚祐であった。尚祐は各家に伝来した書札礼の集積に努めた。寛永三年(一六二六)尚祐の没後、第一五代古祐が、父の業績を継承し『和簡礼経』『書礼袖珍宝聞書』を完成し、これは江戸時代を通じて幕府右筆の規範となった。

古佑が大成した書札法式は、曽我流書札礼と呼ばれ、幕府右筆である久保正之に伝授された。久保正之は幕府の書札礼の整理・作成に努力し、久保正之・正永父子は、諸家及び寺社の領地朱印状の発給実務に当たった。

実用的な書札礼の確立は、幕府の文書発給の基本となるもので、それは曽我助乗・尚祐・古祐の三代にわたってまとめた曽我流書札礼を前提としたものであった。曽我家は故実家として、書札礼の形成・伝播に重要な役割を果たしたのである。(小宮木代良「曽我流書札礼書諸本と[書札法式]について」東京大学史料編纂所研究紀要第五号1995・3)

このことが曽我氏の徳川将軍家旗本としての地位を押し上げ、幕府内での出世に寄与したのである。

 

曽我又左衛門古祐の来歴

曽我氏が領主として河内を支配することになったその最初は、一五代曽我又左衛門古祐である。慶長六年(一六〇一)一六歳で徳川秀忠に仕え、御書院番に列し、下野国足利郡葉苅において二〇〇石を賜う。大坂の陣において旗本の隊にありながら、抜け駆けして首一級を得る。しかし軍令を犯した抜け駆けを咎められ、閉門を申し渡される。

その後許されて、寛永三年(一六二六)上総国海上郡に采地千石を賜り、御使番を経て同九年(一六三二)御目付に進む。家光の命により、父祖伝来の書札法式を久保正之に伝授する。同年六月、加藤肥後守忠廣封地没収の任務を命じられ、熊本に赴く。同年十一月布衣(ほい)(おめみえ)を許され、翌十年(一六三三)長崎に赴き、仮の奉行として采地千石を賜る。(『寛政重修諸家譜』第九)

この時、古祐は長崎でキリシタンの処刑に携わっている。処刑された人々の中には、遣欧少年使節の一人であった中浦ジュリアンもいた。しかも、日本の管区長代理であったフェレイラ神父を転向させるという成果を上げ、フェレイラはその後、それまでの立場と正反対の、キリシタン取締りと捕縛に従事したのである。(結城了悟『聖母の騎士』)

寛永十一年(一六三四)六月から、三〇万七千人の軍勢を従えての将軍家光の上洛が行われた。曽我又左衛門古祐は将軍に供奉し、そのまま大坂西町奉行に任じられた。水走村・福万寺村・上之島村に二千石の知行地と、河内郡日下村に役知として千石を賜り、同十五年(一六三八)丹波守に叙任される。(『寛政重修諸家譜』第九)

 

河内における曽我氏の所領

曽我氏の河内における石高 は、日下村の役知が一七代仲祐の時に除かれ、寛保三年(一七四三)には二五〇〇石となったが、弟熊之助に五〇〇石が分地された。

その明細は上表のように、曽我日向守善祐支配が、上之島村・福万寺村・水走村の一部で計二〇〇〇石、曽我丹後守熊之助支配が、水走村、松原村で計五〇〇石である。水走村は村内で分かれている。(「寛保三年恩知川御領・私領高附之写」『川中家文書』日下古文書研究会)

曽我氏の地方代官―塩川家

塩川家文書、明治三年「証書」によれば

 

一我等父多田右衛門迄、累世庄屋役持参候処、去る文政年中地頭曽我家において先前由緒之義もこれあり、尤村役勤向も行き届き、自然と領主の思召にも相叶い、其頃より家来と相改り、地代官仰付けられ

 

とあり、水走村塩川家は、文政年中に、曽我丹波守との由緒があり、また村役勤め向きも行き届き、領主の思し召しにも叶い、家臣となって、曽我氏の地方代官を務めていた。また同家の別の文書に次の記載がある。

 

達書之事

今般上京につき格別精勤之處、なお在京中も精々骨折出精相勤候につき、出格之思召をもって壱年に拾五人扶持米高永々下しおかれ候、其上御用役仰せ付けられ候間、なお此上共御奉公大切に精勤致すべきもの也

              五月 曽我勝太郎㊞

 

曽我氏の殿様が上京されるにつき、格別の精勤、在京中も骨折り出精に勤めたことから一五人扶持を賜り、ご用役を仰せ付けられたとある。一五人扶持とは、一人扶持が一日米五合で年一石八斗であり、年間二七石になる。水走村塩川家は、曽我氏の家臣として扶持米を受け、曽我氏の地方代官としての御用を務めていた。前述の曽我氏家老一行の日下村丹波神社参詣にも、代官として塩川五郎左衛門が付き添ってきているのである。

 

丹波神社
曽我永佑墓

イザベラバードとの出会い           岩崎祐二

イザベラ・バードとの出会い   岩崎祐二

私は以前、江戸時代後期の旅行家である菅江真澄の「遊覧記」を読み、二回程秋田へ行き、菅江真澄記念館を訪れた。真澄は天明五年(一七八五)秋田から津軽への途中、矢立峠へ差しかかった折、三年前の天明の飢饉の為に餓死した人を弔っている乞食と出会った。

「われわれは馬を食い、人を食ってかろうじて命は助かった」と言う。

「馬や人を食ったのは本当なのか」と問うと、

「人も食べたが耳と鼻はとくによかった。しかし食べるべきものではないので、決して人に語らずにいる」と言う。

 この話に私は衝撃を受けた。日本でこんなことがあったのか。それからずっと矢立峠の恐ろしい現場を歩いてみたいと思い、五年ほど前に津軽への旅のついでにレンタカーを借りて矢立峠の近く迄行き、歩いて山に入った。少し登って行くと案内板があり、それには「この道は英国のイザベラ・バードが通った道です」と書かれてあった。さらに登って行くとまた同様の案内板があった。イザベラ・バードとは何者か、何故ここを通ったのか、真澄の本を読んで私と同じ気持ちでここへ来たのだろうか。

家に帰って調べると、バード女史は、イギリスの女性旅行家であり、キリスト教の伝道と普及の可能性を探るために日本を訪れたのであった。日本では英国公使のパークスの支援を受けて制限のない旅が許されていた。西南戦争直後の明治十一年、通訳兼従者を伴って、バードは奥州から蝦夷へ行く途中に矢立峠で大雨に会い、土砂流や土砂崩れで苦闘したそうである。彼女が特に真澄の本は読んでいなかったことがわかり、日本の東北での飢饉におけるむごい話を知らずにいたことにほっとした。日本の新政府は女性でも安全な旅ができることを諸外国に知らせ、不平等条約の改正につなげようとしたのである。

 

    二

昨年暮れ、函館五稜郭南方にある函館戦争時の千代ヶ岱(ちよがだい)陣屋跡に中島三郎助の終焉の地を訪れた。

昨年、日下古文書研究会で川中家文書の「漂流人異話」を読んだ。嘉永三年(一八五〇)に神戸港を出帆した栄力丸の水主(かこ)一七名が嵐で難破し、アメリカ船に救助されて帰国するまでの漂流記である。水主たちはペリー艦隊のサスケハナ号に収容され、日本に向かうはずであったが、芸州瀬戸田の仙太郎は、上海で他の水主が下船した際、不幸にも唯一人、サスケハナ号に残された男であった。

嘉永六年(一八五三)サスケハナ号は浦賀沖に停泊した。下田奉行与力中島三郎助はペリー艦に一番乗りし、仙太郎に、下船して帰国する意思はないかを問うた。仙太郎は、外国からの帰国者は処刑されるのではないかと怖れて下船を断り、ペリー艦隊にそのまま残り、アメリカに帰った。彼は七年後の横浜開港と同時に帰国している。

中島三郎助はその後、長崎海軍伝習所一期生となり、勝海舟と共に学び、江戸開城後、榎本武揚と共に函館五稜郭で戦うことになる。中島は榎本武揚の降伏案を拒否し、五稜郭を出て千代ヶ岱陣屋で二人の子息と共に戦死する。

明治政府はこの陣屋跡地に函館懲役場(刑務所)を建て、囚人を収容した。バード女史は函館病院など共に、ここも訪れたが、その時の感想を「この場所はあまりにも人道的で度が過ぎていると思う程である」と評している。

この地は中島父子の、幕府への忠節を貫いた真っすぐな生き方にちなんで、中島町と名付けられた。「中島三郎助父子最後の地」の慰霊碑が建てられ、毎年五稜郭祭りで碑前祭が挙行される。町の中心には中島小学校があるが、ここの小学生は、このような歴史のある町名の由来を、どのように教えられるのだろうか。非常に興味がある。

 

    三

今年五月に新潟へ旅行した。新潟駅に着いてすぐ新潟市歴史博物館へ行き、館内では最初に映画を見せてもらった。

それはイザベラ・バードのアニメ映画であった。バード女史が新潟へ立ち寄ったのは知っていたが、この地でそこまで名高いとは、下調べせずに来たのを悔やんだ。

記憶している限り辿ってみようと思い、夕方北前船の廻船問屋であった旧小澤家住宅で、バードが何用でこの地にきたのか、何処に泊まったかを調べたいと思い、基督教団の教会が記載されている地図がほしいと、ガイドの女性に頼むと、直に地図を出してくれた。駅からレンタサイクルでいけると説明を受けて、翌日先ず白山神社へ行き、途中で教会の場所を尋ねたら、近くに二軒あると教えてくれた。

一軒目の東中道教会を訪ねたら不在だった。二つ目の新潟教会を訪ねると、白髪の品の良い老婦人が現れ、分厚い教会史を取り出し調べてくれた。この教会のファイソン牧師とバード女史が英国にいる時からの知り合いで、彼を訪ねて新潟へきたのであった。教会では泊まることができないので、ファイソン夫妻の自宅に泊まったのである。

東中道教会のパーム牧師は、医療宣教会からの派遣で、ファイソンや、バードの英国教会伝道協会とは別流の派遣であったが、彼の医療と伝道活動をバード女史は高く評価し、その調査の為に新潟を訪れたのであった。

バード女史は新潟から奥州を通過し函館へ。それからアイヌを調査して東京へ戻った。後日、神戸・大阪・京都・伊勢神宮を訪れている。神道は宗教といえるのかなど、日本人の宗教意識を調査し、キリスト教伝道に繋げる道を模索していたのである。

イザベラ・バードの真の凄さは欧米人が特に嫌い、下品とした日本の習慣である男女混浴の風呂に一人で入ったことである。そして女史は、「英国人はパブで社交を楽しみ、日本人は混浴風呂で社交を楽しんでいる」と、肯定的に評価している。このことからも、バード女史の人間としての深さを私は感じた。

 

享保二十年六月淀川洪水三矢切れ ―「享保二十年森家日記」より―

享保二十年六月淀川洪水三矢切れ―「享保二十年森家日記」より―

              会報「くさか史風」編集部 

当古文書研究会で翻刻中の「森長右衛門庄屋日記」に享保二十年の淀川洪水についての興味深い記述がある。

六月十九日から二十日にかけての台風接近による豪雨がもたらした大洪水である。六月十八日にはその兆候が記述されている。以下、日記から関係個所を抜粋してみる。

六月十八日

未の刻過ぎ、少し暴雨降る。地湿るほどにて、流れるほどは降らず。雷は数十声遠く聞こえる。

六月十九日

立秋 卯 八刻に入り、昼過ぎ雷鳴、暴雨降る。よく乾きし田に、足跡に溜まるほどなり。また、夜七ツ時より雨降る。

六月二十日

未明より卯の刻過ぎまで、細雨降る。終日折々はら降る。雲西へ飛び、東風強く吹く。

六月二十一日

朝五ツ時より終日終夜風雨。

六月二十二日

昨朝より風雨続き、今暮れ合いに止む。風は今朝より次第に止み、山川五合水出る。当年、之なき高水なり。恩智川九合水にて、東の橋詰にて橋まで五、六寸間、之あるほどの洪水なり。

今初夜時、枚方宿少し下、伊加賀村にて淀川河内方へ切れる。

六月二十三日

昨二十二日初夜時、枚方宿の下、伊加賀村にて淀川河内方へ切れ込み、切れ口五十六間、深さ三間ばかり。上は枚方限り、下は網島裏まで、八ヶ庄共に水下になる。今日暮れ方に徳庵堤迄水来る。野田、沢上(かすが)江(え)辺りへは今夜半時水来る。下は二十五日昼九ツ前まで段々水増す。八ツ時より少しずつ水減り申し候。六月二十五日朝五ツ時に沢上江村の南にて平岡彦兵衛様・久下藤十郎様御奉行にて、わざと切り成され候。二十六日に伊加賀村切れ口、切れ留の入札入れる。

 

この様に河内平野一帯が水につかるという大洪水であった。しかし、恩智川もかなりの水量であったものの決壊するには至らなかったらしい。また、二十日には東風が強いと書かれている。これらから考えると、低気圧の中心及び降雨の激しかった所は、日下より北西部を通過したと考えられる。そこで、丹波・山城に注目すると、やはり大洪水の記録が残されていた。丹波山地の南側の降雨は桂川に集中したとある。この水量が川下の枚方での破堤につながったのであろう。尚、日記の記述は「伊加賀村切れ」となっているが、通常は「三矢切れ」といわれている。

もう一つ、堤防決壊について考えておきたい。枚方宿の辺りは淀川が少し蛇行する箇所であるから、洪水時には川の流れが堤防を外側(川側の方)から削っていき、破堤に至るように想像しがちである。しかし、明治十八年の伊加賀切れの事象から考えると、享保二十年も越水破堤ではなかったかと思う。越水破堤とは、川の水が堤防を越えてあふれ出し、堤防の内側(人家のある方)の法面(のりめん)を滝のように流れることによって、法面(のりめん)を侵食して破堤に至る現象である。その時に、滝のように流れ出た水が堤防の下部を掘り下げて、くぼ地を造る。洪水が引いた後にこのくぼ地が池となって残ることがある。

明治四十一年の地図を見ると、伊加賀の決壊場所に池が残っている。枚方宿鍵屋資料館学芸員の片山正彦氏に、この池を「おっぽり」と呼ぶと教えて頂いた。漢字を当てるとすれば「落堀」ではないかと思うが確証はない。因みに、享和二年の決壊は寝屋川市の点野辺りであった。

明治四十一年の地図を見ると断定はできないが、やはり「おっぽり」らしい池がある。さて、日下古文書研究会では、枚方の堤切れを川の方から考えてみようと、天満八軒家から船で枚方鍵屋を目指す、秋の校外学習を実施した。道中の様子は、この後の紀行文に任せるとしよう。

 

 

 

 

淀川クルーズ 淀川洪水の跡を訪ねて  頭師勇三郎

九月二十九日、好天気にめぐまれて、新しく整備された八軒家浜船着場から家形船風遊覧船で「三十石船」きどりで、枚方船着場めざし大川をのぼる。


水上から眺める大阪市中の光景もおもしろい。天満橋をすぎると大阪造幣局で桜の頃はきれいだろうと思った。環状線をくぐると毛馬桜宮公園だ。大阪城が見える。

ガイドの案内や「三十石船歌」のサービスもあり、興味もつきないうちに「毛馬閘門」に着く。ここで「大川」から「淀川」へ出るが、これも初めての経験である。所要時間二十数分で淀川に出る。川幅は広く雄大であり、淀川を船でのぼる貴重な体験ができた。

 

赤川鉄橋・菅原城北大橋・豊里大橋・鳥飼大橋等をくぐって枚方めざしのぼっていく。途中、幾多の河川公園には、日曜日も相まって、多数の人が運動や散歩を楽しみ、また、川岸の所々に「魚つり」を楽しむ人も見かけ、平和な日常が感じられた。「カワ鵜」や「白サギ」の姿も見かけ、有名な「ワンド」(天然記念物のイタセンパラや様々な生きもののすみかである。)あり、まだ自然が残っていると思えた。

そうこうするうちに「枚方船着場」に到着した。ここも整備された「淀川河川公園」でここを通って堤防にあがり、大阪府道をわたればすぐ「鍵屋」に着く。菊御膳で昼食の後、展示品を観覧する。

当時この地が京(伏見)と大坂の往来の要所で、淀川を通行する船の拠点でもあったことが、枚方宿の繁栄の一因であろう。「くらわんか舟」も特徴的な方言と共に、この土地の風情を伝えている。

余談であるが鍵屋に残されている「カマド」は、以前見学した「日下河澄家」の「カマド」に比べ質素に思ったが、商人の家と庄屋の家の違いかもしれない。

昼食後鍵屋資料館学芸員の片山正彦氏の説明で、明治十八年の洪水碑・仮堤防跡・水面回廊等を廻る。古い淀川の堤防は現在の堤防の外側にあり、民家が建ち並んでいるが、家のすぐ裏が断崖のように段差があって、堤防の名残がはっきりと残っていた。

洪水のあと、水が引いてからも、切れどころに水が溜まり、池のようになって長く残っていて「おっぽり」といった。この池の周りに遊郭ができて、遊客はこの池に船を浮かべて遊んだそうである。その遊郭だった家が今も残っていて興味深かった。どんな災害や苦難も人々は、前向きに乗り越えてきたのだと、感慨深いものがあった。

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