会報「くさか史風」第7号

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会報「くさか史風」第7号

活動報告と内容紹介

         

日下古文書研究会では、会報「くさか史風」編集委員の長谷川治氏と、山路孝司氏が余儀ない理由で退会されました。大きな打撃ではありますが、私たちはこんなことで負けてはいられません。

日下古文書研究会の活動は、一九年目となり、これまでも何度も困難なことに遭遇してきました。それでも学習の成果を一一集の資料集として刊行し、この会報「くさか史風」もこの度、第7号をむかえることになりました。

『森家日記』の解読と、翻刻刊行を目指して会員一同やる気満々なのです。そんな折、コロナ感染症拡大は収まる気配も見せず、三回目の緊急事態宣言の中、私たちの学習の場である孔舎衙公民分館は閉館となりました。四月から五月にかけて、自宅での自習で我慢の日々。メーリングリストで連絡を取り合いながら、会報「くさか史風」第7号の編集に取り組みました。

「シリーズ『森家日記』にみる江戸時代の暮らし」は、「日下村事件簿」として、賭博と堕胎を取り上げました。近世の暮らしの中の陰の部分ともいえるものでありますが、そこには避けて通れない人間の真実が潜んでいます。

それに関連して、浜田昭子「江戸時代の河内の治安」は、村落における欠落・賭博・窃盗を取り上げました。河内の経済的安定によって、そうした事件は非常に少なかったのですが、それでも、それぞれの不幸な事情で、不正に携わるしかなかった人々もいたのです。

西村元一「京都旅行と伊勢参宮」は、旅行好きであった長右衛門の、何でも見てやろうという、意欲溢れる旅日記です。何よりも、一日に四十㌔以上もの距離を歩きぬく江戸時代人の脚力には驚くばかりです。

佐々木拓哉「近世から現代の飯盛山の歴史」は、飯盛山を南朝ゆかりの史跡とする説は歴史的に根拠のないものであること、三好長慶の居城飯盛城が日本の城郭史上において重要な城であることを明らかにし、その後、現代までの飯盛山の変遷をたどっています。

浜田昭子「明治の大水害による十津川村民の北海道移住」は、明治二十二年の大水害により、二五〇〇人もの村民が北海道への移住を余儀なくされた、その過酷な道のりを紹介したものです。

浜田昭子「十津川村の廃仏毀釈」は、近世において、宮門跡寺院聖護院の高圧的な支配に苦しむ十津川村民が、明治の神仏判然令によって、村の神社を自分たちの手に取り戻すまでの必死の努力をたどります。

田畑施肥明細は、長右衛門が緻密に記録した田畑への施肥の内容を、編集部でまとめました。ここから享保時代の農業事情が浮かび上がってくるでしょう。

 

二〇二一年五月二十日

日下古文書研究会 代表 浜田昭子

 

明治の大水害による十津川村民の北海道移住   浜田昭子

我々が十津川村文書と出会ったのは、二〇一一年八月、十津川村を襲った台風一二号による大水害が契機となった。至る所で土砂崩れがあり、明治期に十津川村長を勤めた上杉直温氏の蔵も地すべりの危険があるということで、文書をすべて蔵出しした上、当会へ持ち込まれたのである。文書整理をし、解読を進める中で、十津川村の歴史にとっぷりと浸ることになった。

古来、忠孝を尊び、仁義を重んじ、皇室への赤誠尽忠一筋の土地柄、村人が守り伝えてきた誇り高い由緒、幕末維新における十津川郷士の活躍、戊辰戦争における北陸から函館への転戦、明治の大水害による北海道への移住など、山深い土地で厳しい自然に寄り添いながら、数々の困難を乗り越えて生きてきた人々の生々しい記録がそこにあった。

今回その中でも十津川村民にとって忘れられない、明治二十二年の大水害による北海道への移住の苦難の歴史をここに掲載した。

十津川村の人口はかつての半分以下に減少し、まさに限界集落へと突き進んでいる。この地に確かにあった人々の暮らしの営み、伝統を誇りとして生きた十津川人の生きたあかしを後世へ伝えていくことは、十津川村文書を読むことを許された我々の務めであると信じる。                   

はじめに

昨今、世界各地で紛争や迫害から逃れて、難民となって流浪する民が増加している。生まれ育った故郷の地を離れ、見知らぬ土地へ向かわなければならない人々の悲嘆は想像を絶するものがある。日本で暮らす私たちには、そのような悲劇に襲われたことはないし、他人事だと思う人がほとんどかもしれない。

しかし、二〇一一年三月十一日の東日本大震災による避難民は、発生直後に四七万人、仮設住宅入居者は一二万四千戸に及んだ。発生から十年が経過した今年二月においても、いまだ四万人の避難民が故郷に帰れず、仮設住宅入居者も九三〇戸が不自由な暮らしに耐えている。日本では災害による避難民はいつの時代にもいた。

明治の頃に、奈良県十津川村の住民が、豪雨によって住居も田畑も流され、二五〇〇名もの人々が、遠く北海道に移住した歴史があるのだ。明治二十二年(一八八九)、十津川村の歴史を大きく塗り替える大災害が襲った。八月十七日から三日三晩降り続いた大雨は山を崩し、濁流が民家を押し流した。この大雨により、洪水被害や深層崩壊を含む土砂災害が多発し、奈良県で死者二四九名、全壊五六五棟の甚大な被害となった。未曾有の大洪水のあと、なお続く雨の中、五条と下市から救援物資が運ばれたが、分断された道路を切り開きながらの命がけの作業であった。

飢餓にさらされていた村民は何とか命をつないだが、水害により家も田畑も勿論、全財産を失った三〇〇〇人近い被災民の今後は大きな課題となった。海外移住の機運が盛んであった当時、北海道移住という案が出されたのは災害半月後の九月初旬であった。

『遠津川』(新十津川村 明治四四年)によると、この間の事情を次のように伝える。

 

 田園ハ変ジテ湖沼トナリ山林ハ荒レテ砂礫トナリ村落或ハ水底ニ沈ム。ソノ惨状実ニ云フベカラズ、嗚呼人生ノ艱難ハ天変地異ヨリ甚シキハナカルベシ。住ムニ家ナク耕スニ地ナシ、(中略)遂ニ本道ニ移住シ新ニ天府ノ国ヲ拓キ農耕ノ業ヲ営ミ百年ノ長計ヲ立テ北門ノ鎖鑰(サヤク)トナラントノ議ヲ一決シ(後略)

 

住むに家なく、耕すに田畑なき人々が、新たな地を開拓し、遠き将来を幸多いものにせんとする望みを立て北の大地を目指すことになる。この時、北海道という最北の地を守衛することこそが十津川人の取るべき道であった。

まさにこの「北門ノ鎖鑰(守衛)トナラン」という決意こそ、彼らの歴史によって形作られた、誇り高い伝統に適った大義名分であった。まず、そのことから紐解いてみよう。

 

十津川郷の報謝精神

十津川郷について語る時、この地に根付く勤王思想と朝廷御守衛の民という誇り高い精神を知る必要がある。それは遠く古代に始まる。十津川村「御由緒」(『上杉家文書』)を史料にそのことを探ってみよう。

十津川は古くは遠津川と表記された。都のある畿内からはるかに遠い辺境の地であった。この村の歴史は壬申の乱にまで遡る。「御由緒」に、

 

天武天皇御宇到御軍之時供奉仕三光之御旗頂戴仕、只今郷中ニ秘蔵仕候

 

とあり、十津川郷民は吉野に逃れた天武天皇に従い、三光の御旗を下賜されたとある。天武天皇からその御製

 

 とをつ川吉野のくずのいつしかと仕えぞまつる君がはじめに

 

を賜り、諸税勅免地と定められた。

次に十津川の名を知らしめたのは南北朝時代(一三三七~九二)である。「御由緒」に、

 

 後醍醐天皇御軍之時始終供奉仕候ニ付、御綸旨三通頂戴仕、郷中ニ宝蔵納有之候 

 

とあり、京を脱出し吉野へ遷幸した後醍醐天皇に供奉し、綸旨三通を頂戴し、それらは宝蔵に納めてあるという。後醍醐天皇の第三皇子大塔宮(おおとうのみや)護良親王(もりながしんのう)は、元弘の乱で後醍醐天皇の挙兵が失敗に終わって後、幕府の手を逃れて吉野熊野に潜伏を続け、反幕府勢力を募るべく各地の武士や寺社に向けて令旨を発していた。今も大塔村にその名を残す大塔宮護良親王、及び南朝との縁の深さとその秘話は十津川村の名をいやが上にも高めることとなった。

高野山から吉野・大峰を経て十津川への修験道の山々は、山を知り尽くした山法師たちを頼って中央から追われた人々が隠れ住むには格好の秘境であった。しかしそれは単なる潜匿ではなかった。復権を願う彼ら貴種の落人を奉じて、常に熊野三山の衆徒(しゅと)が中央を震撼させる動きを起こすのである。熊野奥之院としての十津川玉置山の衆徒も例外ではなかった。

建武三年(一三三六)足利尊氏は光明天皇を践祚し京都に武家政権を成立させて後、後醍醐天皇は吉野へ逃れて南朝を開く。以後、村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇にいたるまで、吉野・賀名生(あのう)などにあって独自に年号を定め、京の北朝に対立する。 

南朝が吉野という辺境にあって、五十数年間よく機能したことの最大の理由は、この地の天武帝への従軍以来の勤皇思想・皇室への忠義一途の伝統ゆえであり、また修験山伏の広大な情報網のゆえであった。北は奥州から南は九州の果てまで点在する勤皇の士を連絡結合してよく敵軍の心胆を寒からしめたのも、彼ら山伏たちの健脚を駆使し、各地の道場に修行する同志たちに情報を伝え、組織的に活動させ得たからに他ならない。しかも修験者たちはいわゆる悪党と呼ばれた、下剋上を日常とする多様なあぶれ者集団をも巻き込んでいたから、強固な武力集団となって南朝を支えたのである。

後醍醐天皇の陵墓は吉野山の如意輪寺内にある円墳の塔尾陵であり、長慶天皇の陵墓は全国に伝説地が多いが、十津川村上野地字(あざ)河津(こうづ)に首塚と、同帝を奉祀する国王神社があり、南帝と吉野十津川との縁の深さを思わせる。

明徳三年(一三九二)南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し南北朝が合体した。しかしその後も南朝遺臣はなお吉野にあって再興をはかった。正長二年(一四二九)北朝後小松天皇の直系が断絶して、伏見宮家から後花園天皇が迎えられると、これに不満を持った後亀山法皇の孫・小倉宮聖承は北畠満雅を頼り反乱を起こす。

嘉吉三年(一四四三)には南朝後胤を称する一味が内裏を襲撃して火をかけ、三種の神器の神爾を奪い取った。南朝の二皇子がこの神爾を奉じ、北山にあるのを一宮、河野にあるのを二宮と称した。しかし十四年後の長禄元年(一四五七)、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が再興を目指して、神爾を奪い返し北朝に戻した。

こうした南朝の後胤を擁し奉って活躍したのは、吉野熊野の僧兵であり、十津川玉置山僧兵であった。南朝の歴史は悲哀に満ちたものであったが、吉野十津川の郷民が南朝成立以来百数十年、変わることなく南朝に殉じたその精神は、長くこの地の人々の胸に熾火(おきび)となって燃え続けた。

その後、大和大納言豊臣秀長の検地によって五九ヶ村高千石は無年貢地となり、徳川の時代になってもそれは変わらなかった。

 

とんと十津川ご赦免どころ年貢いらずの作りどり

 

とうたわれたこの地は米を納めるほどの耕地がなかった。米を食うのは病人だけであった。焼畑でとれる麦・稗・粟の他に、トウモロコシやイモ類も主食であった。男は山に入って木を伐りだし、筏を組んで川を下った。ご赦免地という誇りと自負は十津川郷民にとって大きな精神的支柱であった。

無年貢地として認められたその報謝として国家非常時には自ら進んで御奉公をせずにはおれなかったのである。さらに、大坂の陣において軍役を勤め、その褒美として鑓役四五人の者へ御扶持方米七八石七斗五升を下賜され、その冥加として北山郷より伐り出す材木筏役人足を勤めることとなった。

「十津川郷御役由来」(『上杉家文書』)によると、徳川家康の将軍宣下のための上洛には美濃から京まで供奉し、京二条城の御門番を勤めている。それ以後秀忠・家光の将軍宣下に際しても白革三〇枚を献上している。さらに金山奉行大久保長安の指示により大津より駿河城までの銀運搬に奉仕し、これにより米五百石を与えられた。

寛文八年(一六六八)の多武峯御造営に人足として出仕し、元禄六年(一六九三)酉六月より南都東大寺三倉の御修復に十五人が出仕し、昼夜の御番を勤め、延宝五年(一六七七)の幕領検地においては、四五人の槍役の者共が、弓・鉄砲・鑓を具して検地役人をお迎えし、領境迄御見送りしている。

将軍上洛であれ、寺社普請であれ、公銀運搬であれ、国家の非常時には何時でも十津川郷士たちは先祖伝来の甲冑を着け、槍・鉄砲を担ぎ馳せ参じたのである。それは十津川郷民が大切にしてきた報謝精神に他ならなかった。

明治二十二年の大水害により、北海道移住が決まった時、北海道という最北の地を守衛することこそが、十津川人にとっての果たすべき任務であった。まさに「北門ノ鎖鑰(守衛)」となることこそが、はるか昔から、十津川人の精神の根底に熱く燃えていた、御赦免地として認められたことへの報謝であった。

 

移住の決断

北海道長官永山武四郎の協力のもと、旅費はもとより、農機具一切、収穫までの食糧・家屋まで官給を仰ぐという破格の条件で村民の説得が行われた。「十津川移住民件緊要誌」(『上杉家文書』)によると、「北海道釧路郡長談話筆記」として北海道について当時の釧路郡長宮本千万樹が次のように述べている。

「開墾は極めて易く、砂石少くして鋤・鍬の入り易く、吉野の二倍の耕作を為し、大抵夫婦二人にて一年間に壱町歩は開墾できる。札幌には製糸会社や製糖会社があり、農産物の売捌きにも便利である。」と夢の新天地であるとの談話を印刷配布し、村民の不安を取り除いた。しかし現実にはそんな生易しいものではなかった。彼らの移住先は石狩国樺戸郡トック原野、空知(そらち)太(ふと)を西へ石狩川を渡った大原生林であった。『十津川出国記』(川村たかし著)から彼らのその後を追ってみよう。

移住が決まった時、冬は目の前、新雪の来る十一月までに北海道に渡る必要があった。財産を売り払い、わずかなものを荷造りし、一戸あたり三円三六銭の支度金を手にして、第一回目の七九〇人が出発したのは水害のわずか二か月後の十月一八日であった。

 

北海道へ出発

着の身着のままで故郷をあとにした彼らの旅は過酷なものとなった。交通手段もまだ発達しない明治という時代、歩いて神戸港を目指したのだ。人々の風体はさまざまであった。老人は髪を茶筅に結び、子供は餞別の手拭をかぶり、一番組・二番組と書かれた籏七流を押し立てていた。そればかりではなく、十津川人たちは、

 

「奮去南山向北洋」

「莫道別離難此北行他日福」

 

という籏を立てていた。住み慣れたふるさとである南山を去って北へ向かう決意をした彼らは、別離の悲しみを振り払って、この先には明るい暮らしが待っているのだと思うことで足を前に進めたのだ。

彼らの七分通りは甲冑・刀剣・猟銃を身に負うていた。北海道移住は「北門ノ鎖鑰」、つまり北方守衛のために他ならず、国家非常時に馳せ参ずるという彼らの伝統にのっとり、先祖伝来の武具を携える必要があったのである。

 

道中の苦難

被災民の列はおよそ十日も続いた。沿道の人々は生涯のうちでこれほど気の毒な人々の群れをみたことがないといった。沿道に住んでいた老女の回想によると、「家へいのう」と泣く幼子に、「あそこにもう家はないのや」とさとしながら歩く母親のいたわしい姿に、弟の綿入れの袢纏を脱がしてその幼子に着せてやったという。また、幼児を抱いて歩く若い父親のポケットにお金を押し込む人、薬や手拭を差し出す人もいた。梅田駅では煎り豆や、ちり紙を贈られ、篤志家からたばこの種を二千袋も贈られた。新聞記事を見た全国民からは多くの支援が寄せられた。

それぞれ小隊に分けて、五条から高田を越えて柏原まで歩く。出発の翌日から降り出した雨にずぶ濡れになりつつ峠越えをし、宿で濡衣を干して夜を明かし、また翌日も重い濡衣のまま雨に打たれて山越をするのは随分難儀なことであった。柏原から天王寺までは、開通したばかりの汽車に乗る。

別隊は高野山から堺に出た。これもざんざ降りの道中となり、高野山から学文路、橋本の渡しで紀ノ川を渡った。三日市で宿屋へ泊り、堺から難波まで汽車に乗った。人々は初めて見る汽車に度胆を抜かれた。森秀太郎の懐旧録には汽車のことを、「大きな真っ黒い動物が赤い火を明かして大変な勢いで白い湯気を吐きつつ驀進してくる」とある。

難波から八軒家船着場へ出て、淀川の広さと、天神橋の長さにまた驚き、町を歩くと街燈の明るさに驚嘆する人々であった。

 「十津川移民着道談話記」(『上杉家文書』)は小樽港に到着したところから記録されている。この史料と、『十津川出国記』(川村たかし著)を参考にしながら、彼らの苦難の道中を追ってみよう。

第一着船遠江丸は明治二十二年十月二十八日午前第八時五分に小樽港に着く。其乗組人員七九〇、第二着船東海丸は十一月五日着。此乗組人員八三〇人、十一月六日午前第八時、第三回兵庫丸着、此人員八六九人、総計二四八九人、此内二名の死亡者、又三名の新生児あり、総人員二四九〇人であった。

小樽で移民たちは日用品を買い求めた。男性は外套・毛布・酒・焼酎、女性は針や糸、布きれなど開拓地では入手できないものを仕入れた。それからは四班に分かれて石炭用の箱台車にむしろを敷いて乗り込んだ。終点の幌内で降り、集治監(刑務所)で一泊。

明治に入って北海道には多くの監獄が作られた。囚人たちは炭鉱や道路建設に駆り出されたので、各地に集治監(刑務所)があった。移住実地選定まで空知太(そらちふと)(瀧川村)の屯田兵屋に寓居することとなり、この間十一里ばかりの道は急ごしらえの道路に降った雪が泥となって歩行きわめて困難であった。

前夜配られたツマゴという雪靴を履いていたが雪がさらに降つもり、寒気は薄着の人々を震え上がらせた。囚人たちが老人・子供を籠で背負い、移民の荷物を担いで後に続いた。

夕刻、奈井江(ないえ)に着いた時には全員疲労の極みに達していた。囚徒の監獄署に宿泊することとなるが、夜具もなく、寒風肌を刺し、実に言語に尽し難き難儀であった。囚人が火を焚くものの、床は氷の冷たさで横になることもできないまま夜を明かした。この一夜の辛苦は後まで語り継がれた。困難な場面に遭遇すると、「奈井江泊りのような」と人々は表現したのである。

 

空知太(そらちふと)で仮居住

その後疲れも癒えぬ体で空知太に向かい、屯田兵屋に到着した。間口三間半、奥行五間の家にて造作も終らず、建築が強行される中、一家屋に四戸が仮居住した。家族の多いものは四戸で二十人にも及び、起臥・炊事などは雑沓のようであったが、ここで春まで過ごすのである。

ようやく荷物が到着し、米や金品が配布され、落ち着きを取り戻す中、兵屋一棟に移住者仮事務所を置き、二〇戸に一人の伍長、総代・会計・戸籍係各一人宛を置き、永住の地を徳冨と名付ける。旧里より送って来た、上杉直温郡書記・久保総代は帰郷の途についた。

しかしここでの生活は辛苦を極めるものとなった。井戸はなく、水は渓流へ出て汲まねばならず、洗面器も風呂桶もなく、ふとんは一家族に二枚、若者はむしろを敷いて寝た。零下二〇度になると壁の隙間から吹雪が吹き込み、寒さは耐え難い。薪もなく、生木を焚くしかなく、もうもうと煙が立ち込めて、結膜炎を病むものが多かった。

その上、煙を出すため連子窓を開け、そこから冷気が吹き込み、老人・子供から風邪をひき、十二月までに三九人が死に、九〇〇人が病んでいた。春までに実に九六名が命を落とし、あとにも病人ばかりという地獄のような冬となった。

十一月という冬に向かう季節から、積雪烈寒の土地を指して移住することの無謀さを考える時、三・四月のいい時期を見計ることが肝要であるという教訓を得ることになる。しかしすべてを濁流に奪われた彼ら被災民にはその余裕はなかった。この苦難の中で屯田兵の勧誘が盛んに行われ、好条件と、北の守りにつけるということが、十津川郷士の血を騒がせ、九五戸が入隊していった。

新十津川村に定住

明けて明治二十三年(一八九〇)一月、移民仮居住地空知太を瀧川村と名づけ、同時に移民永住の地、徳冨を新十津川村と称することとなる。やがて春となり、入植地を抽選で決め、一行が開拓地に向ったのは六月になってからであった。半年を暮した屯田兵屋を掃除し、便所もきれいに汲み上げて去った。石狩川を丸木舟で渡り、原野の一軒家にたどり着く。新十津川村役場を開設、同時に村医も来着し開業する。移民たちは早速開墾にとりかかった。笹を刈り取り、木を伐採し、ソバや大根を蒔いた。

開拓民は一戸あたり五町歩(一万五千坪)の原野を与えられたが、この年の開墾総高は、二一三町九反二九歩、一戸平均三反九畝二五歩、内作付反別五九町四反五畝五歩、収穫としては、蕎麦二五四石余、大根一三万四三八〇貫余、馬鈴署一六一石余、六月の入植では他の作物が種蒔時期に遅れたのはいかんともしがたいことであった。十二月二十八日、開墾勉励者一七一人ヘ賞典授與を行う。

二十四年(一八九一)はネズミの被害は多いものの、収穫物は、麦・粟・黍・小豆・大豆・馬鈴薯・大根などがあり、旧郷で作っていた煙草、藍、麻などは試したが土が合わず収穫出来なかった。菜蔬物の良質なことは旧郷の幾倍で、殊に南瓜類の種類多く美味で重さ四・五貫もある。西瓜と玉菜(キャベツ)の風味のよいことは驚きであった。

同年一月には故郷の玉置神社の分霊を役場の近くに仮殿を建てて奉安した。社は二十七年(一八九四)に上徳富のスシン島と呼ぶ石狩川畔に移した。

二十四年三月、徳富川を挟んで北と南に二つの小学校が開校された。学齢児童四八一人、内就学生二七五人、内上徳冨校は男生九一人、女生三二人、下徳冨校は男生一一四人、女生四〇人、訓導二人、授業生二人。児童は袢纏・股引・たび・草履で通学した。雨天や雪どけ道の時には裸足になった。極寒の冬も教室で火鉢に炭を入れるだけであった。弁当には粟や馬鈴薯・かぼちゃ・大豆を持たせた。

新十津川村戸籍を調査すると、二四八九人移北し、内三一二人は屯田兵に入隊し、残リ人員二一七七人が全村の元祖となる。その後第二移住者が加わり、縁故なく入籍する者と、死生差引き人員二四〇九人、内男一二七〇人、女一一三九人であった。

北海道殖民は日々増加し、各地の進歩は驚くばかりである。小樽市街は商業盛んで、戸数も五〇〇〇戸を下らず、札幌は壮麗・堅廓であり、家屋は洋風で練瓦石造多く、各庁舎及種々の会社は煙筒の数多く、師範学校、農学校、郵便電信局、製糖会社、製麻会社、電気会社等は人の目を驚かすほどである。その他江別、岩見澤、市来(いちき)知(しり)など新十津川村に至る通路、鉄道線路停車場など施設も充実している。空知太迄は鉄道線を布設した。

奈井江には屯田騎兵が置かれ、戸数二・三〇〇戸の一市街となっている。移民がたどり着いた原野の空知太は屯田兵が次々入村し、開墾が進められ殷賑を極めるほどであった。新十津川の北には、華族、諸公共有の天下有名の大農場があり、洋風器械にて開墾している。

北海道動物について内地では、猛獣毒蛇がいて、人は皆熊に噛まれ、大蛇に呑まれ、囚徒の外は常人の行くべき所にあらずといわれたものであるが、現実は雲泥の差がある。熊はいるが人が挑発しなければ襲ってこないし、蛇は内地の十分の一もいない。猿・猪等の害もあまりない。

 

その後の新十津川村

 その後も新十津川村では順調に収穫を上げていたが、三十年には大規模な虫害に襲われた。「虫送り」を復活したが、その年の作物は全滅であった。しかし水田は被害を免れたため、これ以後水稲栽培が盛んになった。

翌三十一年(一八九八)には石狩川の氾濫によって、耕地の半ばは濁流に洗われた。虫害に続く水害で離村者が続出し、村民の団結は崩れ新しい開拓者が流れ込む。大正二年(一九一三)の冷害は大凶作を引き起こした。村の反当り平均は八升に過ぎず、大豆・小豆・トウモロコシも全滅し、ワラビの根を団子にして食べるしかなかった。

それからも水害や冷害に襲われながら移民たちは力を絞って開墾を進めた。次第に水田熱高揚の時代となり、もともと寒冷地に不向きとされた水稲であったが、北海道の気候に適う直蒔法を取り入れ、品種改良が行われた。水稲作付面積は明治二十七年(一八九四)に三町歩であったものが、大正時代(一九一二~)に入ると二三〇〇町歩と増加し、昭和三十五年(一九六〇)に北海道の産米はついに五〇〇万石となり、新潟県をぬいて日本一となったのである。

甲冑・槍・刀を帯び、十津川人の伝統としての「北門の鎖鑰につかん」という大義名分を旨とし、はるかな北の大地に赴いた人々は、想像を絶する辛苦を乗り越え、希望を失わず、たゆまぬ努力の末に、確かな成果を獲得したのである。

新十津川村では入植後の激動期を経て、他府県人の流入が増加し、住民の構成は年々変動し、十津川村出身者の割合は次第に減少した。その間の通婚を経て新しい地域社会を形成しつつ、今もなお大和十津川村を母村として敬愛の念を抱き続ける精神は失われることなく、村人の心に息づいているのである。

 

 

 

 参考文献

『遠津川』新十津川村 明治四四年

「御由緒」「十津川郷御役由来」「十津川移住民件緊要誌」「十津川移民着道談話記」(十津川村『上杉家文書』

『千葉政清遺文集』昭和四七年十津川村史編輯所「十津川物語」

『十津川出国記』川村たかし 1987年 北海道新聞社

 

 

 

十津川村の廃仏毀釈―「玉置山始末書写」―   浜田昭子

 はじめに
 十津川村では、明治の神仏分離令の発令とともに、すさまじい廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。そこには、十津川村民のやむにやまれぬ事情があった。その実情を探ってみよう。

神仏分離令

 慶応三年(一八六七)十二月、明治新政府は江戸幕府を倒したあと、「王政復古」を宣言して、天皇を中心とした強力な中央集権国家の形成を目指した。天皇が神権をもって日本を統治する国家を形成するために、新政府は神道国教化政策を早急に推進していった。

慶応四年(一八六八)三月、祭政一致・神祇官再興に伴って「神仏判然令」を布告。この法令は、従来、本地(ほんち)垂迹(すいじゃく)というかたちで、仏教が根本で神祇は従属的なものとされていた状態から神を自立させ、仏より優位にしようとするものであった。

この法令に基づき、全国の神社はこれまで祭祀してきた本地仏・仏堂・仏具類をことごとく取り除き、破壊した。そしてこれがさらに廃仏毀釈へと進み、全国で一〇万ヶ寺あった寺が半分の五万ヶ寺へと仏教寺院の破壊が進んだ。

 

真宗地帯の場合

廃仏毀釈の嵐が各地で吹き荒れる中、河内では主として浄土真宗寺院が多かったことから、それほどの大きな騒ぎにはならなかった。それは浄土真宗という宗派が、宗祖親鸞、蓮如以来、あくまでも民衆側に立つ姿勢を保持し、大きな寺院権力を振るうというようなことがなかったからである。真宗寺院の下には村毎に道場が設けられ、そこでの講を中心に、村人の信仰生活が展開した。道場は真宗門徒の結集の場となり、講の後で茶や酒を楽しむ憩いの場であり、様々な暮らしの悩みを相談する場でもあった。

真宗門徒にとって真宗寺院は、権力として相対するものではなく、日常生活に密接に結びついた習俗として、暮らしの中の重要な柱とも言うべき存在となっていた。

そのため、愛知県や福井県などの真宗地帯では、明治六年(一八七三)から廃仏毀釈や廃合寺への反対運動として護法一揆が起こるのである。それは、明治新政府の神仏分離令によって、村落と真宗寺院を結ぶ大きな柱を断ち切られることに対する抵抗であった。近代化を推し進めようとして、人々の生活習慣や、規範、宗教的信仰を、早急に改革しようとする新政府への反抗でもあった。

同じ真宗地帯であった河内でも、廃合寺は一部あったが、激しい廃仏毀釈の行われることはなかった。

 

十津川村玉置神社の場合

しかし、そうではない地域もあった。「玉置山始末書写」(天理大学附属天理図書館蔵)には、奈良県十津川村のすさまじい廃仏毀釈の実情が記録されている。

十津川村では、村民が崇敬する玉置神社が、近世において聖護院の末寺となったことで、宮門跡寺院の強大な仏教権力が、郷中山林まで支配するという専横を極め、それまで神社を守っていた社家がなすすべもなく虐げられていった。そして、この状態の中での神仏分離令の発令は、それまでの反動で、過激な廃仏毀釈の行動へと繋がっていくのである。「玉置山始末書写」を史料として、その実情を探っていこう。

 

玉置神社が聖護院末寺となるまで

 十津川郷では、慶長年中に、玉置笹之坊伊織以下、野尻助左衛門・矢倉左馬之助・長殿妙慶院の四名の者が郷中の年貢を取立てていた。彼らは玉置山の社僧であり、多勢の僧兵をたのみ、山林なども支配し、この地の領主のごとき振舞となっていた。この暴挙に憤慨した河津村の権兵衛が糾弾し口論となる。権兵衛はこの四人にあやうく殺されるところを娘の機転で逃れ、乞食となって駿河に向かい、府中の徳川秀忠に哀訴した。

その後七年目にして、京都所司代によって、横暴を極めていた四名は召捕られた。大坂の陣にあたって彼らは出牢し、三名は戦死を遂げ、玉置笹之坊伊織は落城の後、紀州橋本において割腹した。同人の家督・田畑・山林は闕所となった。笹之坊伊織は玉置山の社家として、玉置山垢離掻山を所持支配していたため、その大山林が闕所山となり、郷民はその処置に困り果てた。

玉置山には近世以前から多くの塔頭が営まれ、多聞院が最も著名で、近世においては光明院・福荘厳院・智荘厳院・浄聖院・本願院などがあり、社坊には杉坊・新坊・飯屋坊・篠坊などがあった。社坊には社家神職がおり、社家数十軒が繁栄していた。

しかし寛永時代(一六二四~一六四四)には、玉置山は興福寺大乗院の勢力下にあり、確たる本寺もなく衰微し、元禄時代(一六八八~一七〇四)には無本寺となり、社家も五・六軒という状態にまでなっていた。笹之坊伊織の闕所となった山林を伐木するためには本寺を頼む必要があり、元禄四年(一六九一)から三八年間、京都安井門跡を本山とした。 

安井門跡・道恕大僧正は宝永六年(一七〇九)東大寺大仏供養の導師を勤め、十津川上組下組がこれに供奉した。安井門跡支配になってから、別当が神領の山林を売り払うということがあり、その後権句という六部(ろくぶ)が庵主となると、京都聖護院に願い出、享保十二年(一七二七)には玉置山は聖護院門跡の末寺となったのである。

(註)六部―六十六部の法華経を六十六か所の霊地に納めるために白衣に手甲、脚絆姿で巡礼した修行僧

 

聖護院末寺としての苦難の年月

 聖護院は常光院の増誉大僧正が大峰修行の後、白河上皇の熊野三山を参詣する熊野御幸に際して先達を務めて以来、 本山派修験の管領として全国の修験者の統括を命じられた。最盛期には全国に二万余の末寺をかかえる、一大修験集団となり、後白河天皇の皇子、静恵法親王が宮門跡として入寺されてより門跡寺院となる。

 十津川村はもとより修験道の霊場であった。役行者(えんのぎょうじゃ)にはじまる修験道は古来より吉野より熊野大峰の根本道場を聖地とし、十津川玉置山も熊野奥之院と称される聖地の一つであった。

 聖護院は玉置山に寺院を建立し、高牟婁院(たかむろいん)と号し、玉置山領分山林まで支配下に置いた。修験集団としての聖護院の末寺となったことで、僧兵らが実力行使で収納物を横領し、十津川村の領主のごとき専横となった。

玉置山の社家は京都役所へ高牟婁院の横暴を訴えるが、門跡寺院の権威のもとではなすすべもなく社家の敗訴となった。これ以後、地元の社家は衰え、高牟婁院の強権支配は激しさを増した。地頭代官へ訴えるも、強大な権威を持つ宮支配ゆえに力が及ばず、玉置山は僧徒の巣窟となりはて、郷中とは隔絶状態となった。郷民は自分たちの神である玉置神社の神祭りにも参加できず、神事も仏式で行われるしまつであった。

 

「神仏判然令」発令―寺院権力と決別へ

明治元年(一八六八)四月の「神仏判然令」によってこの事態は大きく転換することになる。太政官通達には以下のようにあった。

 

 今般諸国大小の神社において、神仏混淆の儀は御廃止に相成り候に付、別当・社僧の輩は還俗の上、神主・神人等の称号に相転じ、神道を以て勤仕致すべく候

 

この通達を受けて郷民はすばやく動いた。同月二十七日に

は十津川郷中より願書を差し出す。その冒頭に、

 

  玉置山復古之義は積年之志願ニ候

 

とあった。十津川郷中の祖神三柱鎮座の玉置神社が、中古

以来仏教寺院勢力に席巻され、神事祭禮も僧の扱いとなり、

郷民の手の届かない状態となった玉置山復古の願いは、郷

民すべての積年の志願であった。この度の御一新により、

僧徒は隠居寺へ住居させ、神事祭禮は社家一統立会の上勤

めたき旨の嘆願を出した。

神祇官事務局からは「玉置三所大神」と称すことを許され、郷民の願いの通り、十津川郷中一統にて奉仕することを命じられた。郷民の志願は聞き届けられたのである。  

これによって聖護院へこの旨のお届けをし、以後、神事祭礼守護修復は郷中にて社務いたし、玉置山境内山林の管理もすべて郷中に取り戻す旨奏上する。院主からは還俗した上、社務をこれまで通り続けることを要求されるが、その儀はきっぱりとお断りをする。村人にとって、還俗してもなお寺院勢力に押さえつけられることは断じて許せないことであった。

五月、高牟婁院主敬純僧は弁事御役所へ願書を差し出す。「十津川郷より、朝廷の仰せであるとして、郷中において社務奉仕の申出があり、仏像仏具も焼き捨て、還俗して社務相続の願いをするもはねつけられ、隠居或は立退きを要求されている。また山林田畑の証文も引き渡すようにとのことで、朝廷御沙汰の権威をもってする横暴である。」との嘆願であった。

双方が対決の後、高牟婁院の立退きについては、山林田畑買受料として二百五十両を差出し、証文を十津川郷中へ引き渡すことで内済する。いかに門跡寺院とはいえ、太政官通達に抵抗することは不可能であった。

 

玉置神社から仏教勢力を排除

長年の仏教権威の苛虐に耐え続けた村人にとって、往古より村人の心のよりどころであった玉置神社を寺院勢力から分離し、村人の手に取り戻したいという思いは、押さえつけられたバネが跳ね返すような強靭なエネルギーとなったのである。

院主の還俗の上、社務相続という要求を言下にはね付けたのは、郷民の寺院権力への強い嫌悪と憎悪があったからに他ならない。七月には高牟婁院の立退きを断行し、いち早く村の神社を仏教勢力から取り戻したのである。

玉置神社の神事・神祭りはじめ社務についても古くからの社家は遠ざけられていたのであるが、かつての社家四家に玉置神社奉仕が委任されることとなった時、ようやく十津川郷民たちの積年の志願は達せられたのである。

 

十津川郷のすべての寺院を廃寺へ

玉置山のこの行動は、十津川郷の他の寺院にも波及し、すべての寺院の廃寺へと進展していった。「十津川寺跡をさぐる」(著者 横谷正光・発行所 十津川村)によれば、十津川村における寺院の始まりについては、折立村松雲寺の開基素菴公が応永六年(一三九九)に亡くなっているので、その頃から十津川郷に寺が建立されていったと考えられる。

寛文十二年(一六七二)閏六月、池穴村竜蔵院が山城宇治興聖寺と本末契約し、以後十津川郷民は禅宗に帰依し、以後寺数は増加し、明治初年には五一ヶ寺を数えた。

明治四年(一八七一)五条県十津川出張所から郷中へ出された通達には、

 

寺院の尊大繚乱、僧侶の破戒怠惰は政教を害するものであり、維新の趣意を奉戴し、僧尼は区戸長へ還俗を願い出るべく

 

とあり、明治五年(一八七二)二月に郷中五一ヶ寺が廃寺の願いを差出し、翌六年(一八七三)四月には裁下された。十津川の寺院四七ヶ寺は曹洞宗宇治興聖寺の末寺で、四ヶ寺は臨済宗妙心寺内金牛院であったが、明治四年から六年にかけてすべて廃寺となった。これにより寺僧も還俗した。

この十津川郷において廃寺が容易に行われたその背景には、郷内五一ヶ寺がすべて禅宗であったことが大きい。禅宗は檀家との精神的繋がりが淡泊であり、村民の中に宗教的欲求がそれほど強烈ではなかったことが作用している。しかも明治維新の理想とする王政復古の精神こそが十津川郷民の理想とする勤皇思想そのものであったことも、彼らをして必然的に維新の先駆者として改革へと駆り立てたのである。しかも玉置山のすばやい廃仏毀釈も彼らの行動に拍車をかけることとなった。

この廃寺の理由について願書には、

 

無住或いは貧寺にて、このまま差し置いては村方難渋につき廃寺仕り、以後は神葬祭に仕りたく

 

とあるが、興聖寺文書では同寺の末寺であった四三ヶ寺のうち、三四ヶ寺は住職がおり、無住という理由は成り立たない。ひとえに十津川郷民の「仏葬祭ではなく、神道の神葬祭でなければ」という願いに他ならない。

そこには十津川郷民の勤皇思想への傾倒があった。文久三年(一八六三)、勤皇攘夷を唱えた志士たちの動きが騒然とした洛中の状況に危機感を覚えた十津川郷士たちが、中川宮へ御所の警備を願い出て許されている。

そこには古来より勤皇の志を伝統としてきた十津川郷士たちの熱い思いがあったのであり、その思いこそが明治維新の復古精神と合致し、より強く仏教勢力の排除、廃寺を推進するエネルギーとなったのである。

明治六年、十津川郷の寺院が姿を消し、神葬祭に切り替えられた。各家では神式で死者の霊をお祀りし、神主が彼岸に合祀を営む。郷内の各字に祖霊社を設けた。

また玉置神社から神葬祭を司る神主に「祀掌心得」十ヶ条を出し、「仏説に惑わされる者には、弊習を氷解し、開化進歩の儀を説諭いたすべし」と厳しく旧弊を正すことを命じている。十津川郷ではこれ以後、還俗した僧侶の大半が神官となり、祖先祭や葬儀を受け持つことになった。

 

十津川郷の寺院跡

では十津川郷の寺院跡はどうなったのか。『上杉家文書』「諸伺留」によると、明治五年(一八七二)二月に「廃寺之儀ニ付伺書」を提出し、「当郷の寺院僧徒は還俗し、又は生国に立帰り、空き寺となっているので、寺は村で取り壊し、霊屋(たまや)に致したく、また寺跡地には桑・茶を植付けしたい」と願い出た。これ以後十津川郷の寺跡は多くは田畑となり、集会所となり、若者の剣道道場となった。また同年に太政官の学制布告があり、奈良県参事より、「廃寺に伴う付属品処理の費用は学資に組み入れられるべく」という通達が出されたので、寺跡に多くの学校が建てられた。『十津川学校史』によると、松雲寺跡に折立小学校、光明寺跡に武蔵小学校、泉蔵寺跡に小原小学校、清竜寺跡に七色小学校を創立している。

他の地域ではその後序々に寺が復活していくが、十津川郷内には一宇の寺堂も復活することなく現在に至り、祖先祭・葬祭もすべて神職が行っている。それは近世において、郷民の祖神であった玉置神社が門跡寺院の強大な権威に席巻され、自分たちの神を自らの手で祭ることさえ出来なかった記憶があまりにも大きな痛みとして生々しく郷民の中に疼いており、それへの嫌悪が消え去ることがなかったからに他ならない。

 

廃仏毀釈の背景―近世の寺請制度の弊害

しかし十津川郷に限らず、多くの地域で激しい廃仏毀釈運動が起こった背景には、もう一つ、近世初頭からの寺請制度の弊害というものがあった。庶民は宗門人別帳に登録され、檀那寺に生死を管理される。寺への奉仕やお布施が十分でないと檀那寺のほうから葬儀や法事の執行を遅延され、あるいは停止され、挙句の果てには檀家から切り離す離(り)檀(だん)ということをされた。それは宗門人別帳からはずされて無宿者となり、社会で生きていけないということを意味する。

いきおい寺の横暴は目に余るものとなる。そうした寺の権力を傘にきた行為、僧侶の腐敗といったことも庶民の心を仏教から離反させた大きな要因であった。十津川郷では文久年間(一八六一~六四)に玉置山高牟婁院主・権僧正定玄の女犯の事実を見かねた郷士たちが聖護院に訴願し、院主は隠居引退となった事実がある。こうした僧侶の堕落も一層仏教に対する反感軽視を増幅させていった。 

特に寺院の強権は神職のものに向かった。神官が神葬祭をしたいと願い出ても檀那寺が承知せず、神職を務める社家は長く檀那寺に非常な圧迫を受け、彼らの不満は鬱積していた。こういう状況の中で明治の神仏分離令が出たわけで、特に神職のものがこれまでの反動で強硬な廃仏毀釈へ突き進んだのもいわば当然ことであった。

古来日本人の根底には、自然神を崇拝し、死者は祖霊となって子孫の繁栄を見守るという死生観があり、日本人固有の神祭り習俗があった。しかし仏教の伝来以降、仏教による儀礼が民衆の中に深く浸透し、神仏習合の中に埋没してしまい、神祭りも仏教一色となってしまった。このことが、人々の本来の姿への回帰を促したと考えられる。

 

まとめ

 廃仏毀釈によって、南都諸大寺の仏像・経典・文書・什器類等が売却・焼却され、天平時代の写経も反古紙として、奈良漆器の包装紙となり、興福寺の五重塔が二五円で売りに出されるという始末となった。現在、京都の知恩院が所蔵する「上宮聖徳法王帝説」は、最古の聖徳太子の伝記として国宝となっており、史料的価値の高いものであるが、この時代に法隆寺から出たものとされている。このように、多くの貴重な仏教経典・古代史料・美術工芸品が廃棄され、巷間・海外に流失し、大きな文化破壊に繋がったことは、取り返しのつかない大きな損失となった。

一つの強大な権威があまりに長く君臨することの弊害、それが崩壊する時のエネルギー、その結果失うものの大きさということを思い知らされる歴史事実である。

しかし、この大きな混乱は間もなく収まり、以後、仏教界の反省や、伝統仏教の近代化をもたらすことになったことは一つの救いであった。

参考文献

「十津川寺院のあゆみ」『十津川寺跡をさぐる』横谷正光

「玉置山」『熊野』里写虎雄 地方史研究所編 昭和三二年

「十津川郷における廃仏毀釈」『千葉政清遺文集』昭和四七年

徐欣褕「明治期にける神仏分離・廃仏毀釈運動 真宗門徒の反対

運動を中心に」 2014

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