塩川家由緒書―石山合戦
水走村塩川家文書には由緒書が二通あり、一通は大坂の陣に関する由緒書であり、これはすでに会報「くさか史風」第2号で紹介した。他の一通には塩川家の石山合戦における事績が記されていた。今回はこの由緒書から解明したことを検証してみよう。
塩川家由緒書
[ 破 損 ]
由緒書
顕如上人御自筆之御裏書、并御自筆之脇掛、当家伝来仕候儀、元来即先祖は赤松家ニテ室町将軍足利家より、摂州深江・足代両村ニテ弐百貫之領地五拾石ニ中ると承り候(其時代銭拾貫文ニ米)
後小寺與八郎入道道喜と申候忰小寺善七郎則久と申者、将軍家没落之砌、顕如上人石山の城ニ御籠被遊候ニ付、上人之御味方ニ参り、難波石山城に籠申候、元亀四年五月七日信長公石山を御責被成申ニ付、興正寺顕尊上人御堅メ被遊候木津城攻を防き罷在候所、寄手勢ひ強く打死と覚悟極メ、前日上人江願ひ候テ、御真向并、御染筆乞請、則七日ニ木津表において敵方大津傳十郎と申ものゝ手ニて潔く打死仕候、其後石山和談ニ相成、上人様紀州鷺の森江御立退被遊候、其砌善七郎弟ニ與七郎と申者、右善七郎妻子を引連、河州[虫損]城主杦原何某ハ所縁有之候ニ付、河州水走(古ノ名水早ト云)江立退、終に水走村居住仕候、今ニ右御真向、并御自筆之脇掛内佛奉崇候、其後小寺氏ハ故有之、母方の姓塩川と相改申候 以上
右之通代々申伝江承り申候、然ル處、右御真向・御裏書弐百余年内担ニ掛崇候ニ付、香の煙ニ燻り、紙も保ちかたく黒く文字等も一向拝れ不申候ニ付、興門跡様江御願申、新ニ御染筆奉願上候拠 御聞届被成下、寂聴上人様より御染筆被成下候
安永五年 善七郎則久法名道泉八代孫
丙申九月 塩川多田右衛門源滋之
(塩川澄子氏所蔵)
安永五年(1776)に認められた塩川家の戦国期の由緒書である。その内容を意訳すると、塩川氏の先祖は赤松家で、室町将軍足利家より摂州深江・足代両村に二〇〇貫文の領地を与えられた。後、小寺與八郎入道道喜の忰小寺善七郎則久が室町将軍没落の後、顕如上人に味方し、石山城に籠城した。元亀四年(1573)五月七日、信長に攻められた後、興正寺顕尊上人(本願寺一一世顕如上人の次男)が守る木津城に馳せ参じるものの、敵方の勢力が強く、討死の覚悟で上人に願い、御真向(まむき)と御染筆を乞い受けたのち、七日に敵方大津傳十郎の手にかかり討死した。
その後善七郎の弟與七郎が善七郎の妻子を連れて、河州[虫損]城主杦原何某の所縁によって河州水走村に立ち退き、ここに居を定めた。小寺の名は故あって母方の塩川と改めた。御真向、并御染筆は二〇〇年の間に香の煙で黒くなり、文字も読み取れなくなったので、興正寺門跡に願い、寂聴上人から改めて下されたとある。
この由緒は、塩川家先祖が石山合戦で本願寺に味方して戦死したという本願寺への忠節を強調するものとなっている。登場する人物はすべて塩川家の過去帳に記されている。小寺與八郎入道道喜については、
天正十二年六月二日 釋道喜 小寺與八郎 小寺氏
とあり、これが善七郎の父親である。忰小寺善七郎則久については、
元亀四年五月七日 釋道泉 小寺長七郎則久 木津城戦死 顕如上人より法名賜る
とある。名前の善が長になっているが、これが木津城で討
死した善七郎である。由緒書に「顕如上人より法名賜る」とあるが、過去帳にも「顕如上人より法名贈」とある。本願寺に対する忠節によって贈られたものであろう。最後の道泉八代孫塩川多田右衛門源滋之は、
寛政七年二月五日 釋梅浄 塩川多田右衛門滋之 七十四歳
とある。これが安永五年にこの由緒書を認めた塩川多田右衛門滋之である。これらの人物の実在に関しては、過去帳で確認できるので信憑性は高いと思われる。
しかしその内容について検証していくと、史実と異なる点がある。まず塩川家が赤松氏を祖先としている。赤松氏は播磨の守護職として室町幕府でも重きを成した守護大名であるが、塩川家の過去帳では、摂州多田庄山下城主塩川伯耆守源仲章[応永二十年(1413)没]を先祖としている。『摂陽群談』によれば、塩川伯耆守仲章は多田塩川家初代仲義の苗孫にあたり、山下城を築城した人物とされる。塩川家の過去帳にも赤松氏の記載はない。
塩川家の現当主塩川澄子氏の記憶によれば、この文書を認めた多田右衛門滋之が、中浜村(現東成区)の後藤治郎左衛門の弟で、後藤家は赤松氏を先祖とし、そこから養子に入ったため、滋之がこの由緒書に自身の出自を書き留めたものいう。この説は納得できるものである。
次に「室町将軍足利家より、摂州深江・足代両村ニテ弐百貫之領地」とある。塩川家は現在、河内郡水走、渋川郡足代、高安郡竹渕(たこち)と三家あり、深江・足代に二〇〇貫の領地を与えられたことが足代の塩川家に繋がったと思われる。足代の塩川家には古文書類や過去帳は遺っていないとのことで、このことを検証することは不可能であった。
水走の塩川家については、現当主塩川澄子氏よりこの二通の中世に関する由緒書の他に、過去帳と、若干の近世文書を提供していただいている。
竹渕の塩川家には、徳川家康から拝領したと伝わる葵の紋入の茶碗が現存する。また、真田信繁の仕掛けた平野の地雷火から逃れた家康が、竹渕の塩川家の大楠に馬をつなぎ、 藪の中に身を隠したと伝えられ、徳川家康馬繋ぎの楠跡の碑が現存する。また、大坂冬の陣の際、十二月に入って家康は茶臼山の陣に移り、総攻撃が開始されたが、この時家康の食事調達のために麦を探したが、河内表は戦乱のために百姓は山へ避難し、穀物も山へ持ち込んでいたため求められなかった。これを聞いた竹渕の塩川弥左衛門は麦二石、同じく東郷村の木村惣右衛門は麦三石を献じた。このため、茶臼山御陣御台所諸役人よりの受取を頂戴している。この現物は遺っていないが、塩川家古記録に載せられている。(『八尾市史』)このように、大坂の陣における徳川家康との由緒はあるが、石山合戦に関する由緒はない。
次に、「興正寺顕尊上人御堅メ被遊候木津城」とある。石山本願寺は防御のために五一城に及ぶ支城を配しており、その中に木津城があることが『信長公記』に記されている。
木津城は水上交通の要衝であった大坂の木津河口に築かれ、本願寺への水上輸送を受け持つ重要な出城であった。木津城に詰めていたのは木津村民の崇敬を集めた願泉寺と唯専寺の門徒衆であった。ここに興正寺顕尊上人も詰めていたのかどうかは史料で確認できない。
この木津城において「小寺善七郎則久が元亀四年(1573)五月七日敵方大津傳十郎の手にかかり討死」とある。元亀四年とあるが、これは天正四年(1576)の天王寺の戦いと思われる。この由緒が戦国期より二〇〇年にわたり、書き継がれるうちに書き誤ったものであろう。
天正四年五月三日、木津城は織田軍に攻められたが反撃し、織田軍を天王寺砦に追い詰める働きをしている。しかし五月七日、信長は三千ほどの兵で本願寺勢一万五千に突撃し、本願寺勢を撃破し、更にこれを石山本願寺の木戸口まで追撃し、織田軍の大勝となった。(『信長公記』)
この戦いで小寺善七郎則久は戦死する。討死の前夜、上人に願い、御真向(親鸞聖人の正面向きの画像)と御染筆を乞い受けたが、二〇〇年の間に香の煙で黒くなり、文字も読み取れなくなったので、門跡に願い、寂聴上人から改めて下されたとある。寂聴上人は安永時代の興正寺の住職である。
興正寺とは、現在は京都市下京区の西本願寺の南に隣接する真宗興正寺派本山であるが、永禄十年(1567)に本願寺顕如上人の次男顕尊が入寺し、石山本願寺の脇門跡に任じられたという由緒を持つ。現在の興正寺の大原観誠氏によれば、寂聴上人は西本願寺に断らず独自に御影類や染筆名号を授与していた人物であったとのことで、明治九年(1876)には独立して興正寺派本山となった。
塩川家の現当主澄子氏にこの御真向の存在を確認したところ、古くから伝わるお軸の写真を送っていただいた。これを興正寺の大原観誠氏に検証をお願いしたところ、冊子であった和讃を切り離し上下に張り付けたものであるとのことで、しかも西本願寺所蔵の文安六年(1449)と長禄二年(1458)の蓮如上人直筆の同文の写本と筆跡が同じであるので蓮如上人直筆の和讃であることが判明した。
石山合戦よりもはるかに古いものとなる。本願寺八世で本願寺中興の祖として著名な蓮如上人直筆の和讃は現在遺っているものも少なく、大変貴重なもので大発見であるとのことであった。
この他にも、塩川家には古いお軸があり、由緒にある御真向かもしれないと思われたが、このお軸は経年のために真っ黒になっており、内容の判別は困難であった。
その後、善七郎の弟與七郎が善七郎の妻子を連れて、河州水走村に立ち退き、ここに居住した。小寺の名は故あって母方の塩川と改めたという。最後に「塩川多田右衛門源滋之」とあるが、源の署名については、『大昌寺文書』の塩川家の項に、「河内塩川家ノ祖先ハ源頼光ノ嫡子頼仲」とある。また、『姓氏家系大辞典』によれば、
橘姓楠木氏、河内国の豪族にして、『長禄寛正記』に「河内衆塩川」、『細川両家記』に「塩川孫太郎」等見ゆ。また河内国渋川郡東足代村の人に塩川道喜あり、聖源寺を開く。もと小寺氏と称せり
とあり、東足代村の塩川道喜は、まさに戦死した小寺善七郎則久の父親である。塩川道喜が開いた聖源寺については、現在の高井田西に「聖源寺題目碑」がある。念唱寺の北西の一角に、台座を含め高さが3.8㍍の大きなもので、正面に「南無妙法蓮華経 法界」側面には「享保十二年 河州渋川郡 東足代村 聖源寺」とあり、裏面には複数の人物の戒名と命日が刻まれている。
聖源寺は天正十三年(1585)に建立され、その境内には二間、三間半の本堂があり、寛政四年(1792)頃に廃絶したという。明治五年(1872)に門前にあったこの題目碑が、寺の跡地より北400メートルの現在地に移設されたとのことである。(『中河内廃寺』)善七郎の他に、塩川家ではもう一人石山合戦で戦死した人物がいる。
天正五年(1577)二月九日、織田信長は軍勢を集めるため、兵一〇〇人を従えて阿倍野から京を目指して奈良街道を通過していた。当時この道筋にあたる足代村には小寺美濃守高仲がいて、本願寺に味方していたので、敵の総大将である信長を見逃すわけにはいかず、奈良街道で待ち伏せし信長を襲撃した。しかし信長護衛の兵は歴戦の勇士であったため、高仲勢の一族は悉く討ち取られ、高仲はわずか十八歳で討死した。小寺家は家名断絶領地没収となり、高仲の母方の塩川を名乗ることになった。塩川家では戦死した一族の供養のため、足代に了月庵という禅宗の尼寺を建てた。了月庵は正徳六年(1716)に日蓮宗に宗旨替えをし聖源寺となった。享保十二年(1727)に寺の正面に題目碑を建てたが、明治五年(1872)に廃寺となり、題目碑は高仲の墓のある念唱寺に移した。
(『高井田誌』(名村利夫・2015年大西正曹編纂)
とあって、小寺美濃守高仲が石山合戦で戦死し、その後に塩川を名乗ったということは前の善七郎と同じ伝承となっている。詳細な記述であるが、『高井田誌』のこの部分の記述は、平成九年の『たかいだ』第13号を引用しており、この著者である名村利夫氏はすでに亡くなられている。『高井田誌』を2015年に新たに編纂された大西正曹氏もこの部分の参考史料については不明とされていて、この伝承の出典は確かめる術がない。
小寺美濃守高仲を水走塩川家の系譜に探しても見当たらず、足代の塩川家には系譜が伝えられていないので、この高仲という人物が実在した確証は得られなかった。現在この題目碑がある念唱寺にも高仲の墓は確認することはできなかった。
聖源寺の題目碑の裏側の碑銘の拓本を取って次ページに挙げた。聖源寺の建立が石山合戦で戦死した先祖の供養のためであれば、この題目碑にもその法名が刻まれているはずであるが、石山合戦で戦死した善七郎や高仲の法名は見当たらない。天正年間から寛永年間にかけて亡くなった一〇名の法名が刻まれているが、その人物はいずれも水走村塩川家の過去帳には見当たらない。
いずれにせよ、石山合戦より四四〇年という年月を越えて言い伝えられたことであり、その史料も当時の一次史料ではなく、近世に書き留められた由緒であり、真実を探ることは至難と言わざるを得ない。
水走村塩川家の系譜では、応永二十年(1413)四月十八日没の塩川伯耆守仲彰を始祖とし、塩川家に蓮如直筆の和讃が存在することは、塩川家が十五世紀からの歴史を積み重ねてきた旧家であることは間違いない事実であろう。
会報「くさか史風」第2号で紹介した通り、水走の塩川佐左衛門重長は大坂の陣の際に家康に忠節を尽くして戦死した人物である。その四〇年前の石山合戦でも同じ一族の小寺善七郎則久が戦死しているのである。
このことで、戦国時代に塩川家の先祖が、当時の河内における有力な国人として、戦乱の中で華々しい活躍をした事実があったことが証明できる。河内において、大坂の陣と、石山合戦での活躍を書き留めた文書が発見されることは非常に珍しく、水走塩川家のこの二通の由緒書はその意味で貴重な史料であるということができる。